12月1日(日)礼拝説教より「大切な子ロバの命」

説教

先週はローマ教皇フランシスコが来られており、いろいろなニュースで、皆様それぞれに、いろいろなことを知り、考えさせられ、また何かの行動を起こさせることもあったのではないかと思います。 
私も今週の説教を準備する上で、今回の訪問が影響していることはたしかで、そこには、究極的には、父なる神が、神の子イエスが、そして聖霊が働いてくださっていることを、新たに覚えるのです。 
訪日に合わせて、「すべての命のために」と題する聖歌も造られ、その中で、2番の歌詞はこう歌います。「神の子イエスよ、あなたは人間の眼差しでこの世界をご覧になり、あなたのやさしい愛に満たされています。」また3番には「苦しみうめくいのちに寄り添ってくださいます。」とも歌うのです。 

与えられた聖書の箇所は、待降節第一主日の礼拝に与えられております。かといって、イエスの降誕の話ではなく、最後に十字架にかけられてしまうその5日前に起こっている時の様子です。
イエスがこの世に来られた意味を私たちに考えさせ、また、いま紹介した聖歌とも共鳴する面が多いにあるのだと思います。
イエスはユダヤ教の神殿があったエルサレムに入城します。エルサレムで出迎える民は、それまでに行われたイエスの数々の奇跡を見聞きして知っており、イエスがユダヤを統治する王となり、ひいては、ローマ帝国も含めた全地をも納める方としてエルサレムに入城すると思っており、勇ましい姿で登場することを期待していたのしょう。そう、背の高い軍馬にでも乗って現れるような。
しかし、イエスはエルサレムへの入城前、弟子たちを、ただ名前もはっきりしない「向こうの村」としか記述されていない村に派遣し、そこにろばと子ロバがつながれているから、ほどいてやってつれてくるように命令されるのでした。また、なぜほどくのかと質問されたら、「主がお入りようなのです。」と言うように弟子たちに指示したのでした。

事実、イエスの言われた通りで、弟子たちが、指示された方向の村に出かけていき、ろばと子ろばをつれてくることが、簡単にできたのでした。持ち主にとっては大切な家畜かと思われるのですが、なぜいとも簡単につれてこれたのでしょう。 わざわざ「主がご入用なのです。」という言葉を言ったか言わないかマタイは伝えていません。  
こういう面もあろうかと思うのです。飼い主は本当に必要としていなかったという面もあったのかもしれません。というのは、ロバは馬科に属する動物で、もっとも小型だそうです。そして普通の大きな馬とロバの違いを簡単に申し上げるなら、馬は、社会性があり繊細な家畜であり、とても価値があったのでしょう。 
しかし、ロバは社会性に乏しく、駆け引きなどは下手で、また性格的にも唐突ということがあるのだそうです。 だから、飼い主は、このロバの親子をつないだままにして、ちょっと現代でいうパワハラにあっていたような面があったのかもしれません。 つまり、ロバと子ロバは、ロープにつながれ、苦しみうめいたのかもしれません。
でも大切なことは、主イエスが、そのようなロバの親子を必要としていた、そして気持ちの上ではずっとイエスがロバの親子に寄り添っていたことをしっかり心にとめなくてはならないと思います。そして、イエスは強い軍馬に引かれた戦車と軍馬に乗るのではなく、預言者の言葉にあったとおりに、荷をひいたロバと、子ロバにまたがって、エルサレムに入城することに大きな意味があったのです。
イエスにとっては、軍馬に引かれた戦車と強そうな軍馬などではなく、この名前も記されていない町で、飼い主にはやっかいものにされて、ただつながれていたろばと子ロバこそ大切だったのです。 

そしてこんなこともいえると思います。馬にまたがって入城していたら上から目線でエルサレムで待つ民の中に入って行ったでしょ。しかし子ロバにまたがっていたので、民と同じ高さの眼差しをもって、民の中に埋もれてしまうような姿であったことでしょう。
イエスはそのようなことを可能にする子ロバを必要とされ、それにまたがってエルサレムに入城されたことは、イエスがこの世にお生まれになった意味を考える上で象徴的な出来事だと思います。
私たちの人間社会には、馬でもサラブレッドにたとえられるような方もおられます。群れの中に生活するのがとても上手で、ものすごいスピード感もあれば、繊細ですばらしいという方々に出会い、私はとても関心することがあります。またロバにたとえられるような方もおられます。 
群れに属するのは苦手で、人々といっしょにいると、唐突な行動や言動をしてしまうことがあり、どちらかというと人々から知られずに一人だけでいたいと思ってしまう。最近よく話題に上るようになった発達障害の方の中にそのような方が多いのかもと思います。今日の聖書箇所にあったように、名もない村でただひとりつながれてしまっていた子ロバにたとえられる気がします。

今日、主イエスから、どのような性格・性質・病気’・障害のものであろが、マタイ福音書にあるロバと子ロバを、主が大切にしておられた話を聞いています。 そして、その子ロバはイエスさまをお乗せして、人々の前に現れたのです。その子ロバにとってはイエスさまがいったいどういう方なのかよくわかっていなかったと思います。でも、イエスの弟子に紐解かれイエスのもとに連れられ、そしてイエスさまがいっしょにいてくださって、人々の中に入っていくことができました。
待降節の第一主日にあって、神の子イエスは社会の小さきもの、また社会から疎外されがちな人の命を愛しておられ、大切にし、その命に寄り添っておられることを覚えましょう。

祈ります:
天の父よ、教会の暦では新しい年となり、アドベントを迎えました。 ここ日本の松橋において、あなたが寄り沿ってくださっていることを覚え感謝します。 クリスマスは、きらびやかなイメージが日本には浸透してしまっていますが、あなたが、夜の時間が一番長い時期、真っ暗闇のなかで、しかも、居場所がなくかいばおけにまずは寝かされたことを覚えます。また十字架に架かる前には、軍馬ではなく、子ロバに乗ってエルサレムに入場されたことを覚えます。 イエスがこの地で、孤独を覚える高齢者の方々に、またさまざまな障害のある方々に寄り添っておられます。あなたの示された十字架の愛が、永遠の命が、さらにこの宇城の地においても、さらに顕されますように。感謝と願い、主イエスキリストのお名前によって祈ります。 アーメン