2月16日聖書箇所よりメッセージ「ボロボロでもよかと」(神水教会での礼拝から)

2020年2月22日説教

マタイ5章 27-32節  27「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 28しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 29もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」31「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。 32しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

主の恵みと平安が会衆の心に豊かに注がれますように!アーメン

知人の牧師から聞いた話なのですが、ある青年が自殺未遂をはかったとのことで、救急車がかけつけたのだそうです。すると右手をリストカットしており、救急隊員の方がよく見ると、そばに聖書がおいてあり、今日の福音書箇所が開かれいたそうです。

さきほど朗読いたしました箇所、「右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。」がハイライトされていたそうです。 なにか、右手がしたことが、つまづきとなったのでしょう。 詳しいことはわかりませんが、それにしても、聖書に書いてあることを、文字通り解釈して実行してしまうこともあるのだと思います。

しかし、聖書の話はとくに旧約聖書の中には寓話のように書かれていることも多く、またイエスの話では、なにかのたとえでお話をされた部分がとても多いのです。なので、ある箇所だけを読んで文字通り解釈するということはよく注意する必要があります。 むしろ、聖書全体に描きだされている、主なるイエスがどういう方であるか、そのことが本当に大切なのだと思います。 

福音書箇所にさらにふれてまいりたいと思います。 今週のイエスの言葉は、文字通り読んでしまうと、とても厳しい言葉であると思います。 いろいろな例を挙げて、イエスさまはお話をされていますが、離婚の例などとても気になるところです。 旧約聖書によれば、離縁状を渡せばなんとかなったようなところがありました。 しかし、イエスはそうではないといわれるのです。 日本語では「不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。」と訳されている「不法な結婚」とは本来のギリシャ語からはだいぶ意訳されているんです。私はその意訳は悪いとはまったく思っていません。ただ、ここで「不法な」という部分はギリシャ語で「ポルネー」という言葉を語源とする言葉が使われていて、そのまま訳すなら、淫らな行い以外、つまり姦淫以外の理由で離縁するものはという言葉なのです。 ここで言わんとしていることは、姦淫以外の理由では絶対に離婚してはならないということに等しいようにも読めてしまいます。   

しかし、実生活で、アジア人女性がアメリカで結婚して、本当に多いと思うのは、家庭内暴力のような場合が多くあるのが現実でした。また、どちらかが、致命的とか、若くして介護が必要な病にかかり、相手への愛情ゆえに、病気になった方の方から離婚を申し出るということなども起こります。そのような離婚せざるをえないような状況になり、離婚した方がキリスト教に導かれることがおこります。 そういう方はどのようにこの部分を読んだらよいのでしょうか? キリスト教には入れないということなのでしょうか?

人の妻を、淫らな思いで見てはならないとイエスは言われます。見るくらいなら、片方の目を抉り出したほうがよいとも言われます。いったいこれはどういうことなのでしょう?   

あるカリスマ的なリーダによって始まって自分たちは聖書に書かれている通りのキリスト教だと主張する宗派のことを知りました。彼らは、離縁をしたものは、その宗派には入れないとしているらしいのです。そして、その宗派におられた離婚経験者の男性が、わたしが奉仕していた教会に来られたことがあり、信仰生活をともに歩んだことがあります。

救い主なるキリストは、そしてその体であるキリスト教会は、悩める方に寄り添い、キリストの癒しがあって、再出発へと導かれます。私は、離婚経験者はその宗派に入ることができないというような規律がずっと続くものかどうか疑わしいと思っています。 

イエスは、十字架刑を受けるとき、となりにいた極悪人ですら、イエスの真理・信仰により、赦されています。

片方の手が悪さをするならその手を切るように、あるいは、片方の目で淫らな思いで人妻を見るものは、その目をとってしまいなさいと言われるイエスは、決して、文字通り、手を切ったり、目を取り出しなさいということではないのでしょう。ましてや、そのコミュニティから追い出されなければならないということが目的でこの話を話されているとは思えません。

むしろ、すべての人間が、完璧ではない、傷を負っている人間であるということを教えてくださっているように読めてくるのです。 キリストの信仰とは、ボロボロになってしまった人生でも、イエスの赦し・神の慈しみの中で、癒され生かされることともいえるからです。 

聖書の中で、多くの方が大好きな箇所のひとつは、十字架刑にあった三日目、両手とわき腹の傷をもったまま、弟子たちに顕れるところがあります。 人々からさげすまれ、ののしられ、十字架刑にあって殺されて墓に葬られたイエスが、傷だらけで復活し、悩む弟子たちに現れるのです。

このときの弟子たちの気持ちはどんなだったでしょうか。その三日前のイエスが十字架刑にかかるとき、弟子たちは逃げていってしまったのです。 弟子たちは、イエスのように体には傷は負っていないものの、心はぼろぼろだったことでしょう。 彼らは、自分たちの無力さと薄情さに打ちのめされていたことでしょう。 主イエスの十字架の死にまつわる痛みは、彼らが自分ではとりのぞくことのできない大きなつまづきとなり、立ちはだかっていたことでしょう。 自分がなにもできなかった悔やみ、恥ずかしさで、彼らの心は充満していたのではなかったのではないでしょうか。しかし、そこにイエスが現れて、彼らをいっさいとがめることなく、心から赦し、「あなたがたに平和があるように。」と、傷だらけのイエスが言われるのです。 

どんな失敗を過去にしていようが、恥ずかしい思いがあろうが、どんなボロボロの、傷だらけの人生になってしまっていようが、そこに傷だらけのまま十字架の死から、そして墓から復活されるイエスが、傷だらけの弟子たちに寄り添ってくださるのです。

ちょっと話は変わりますが、私がアメリカの教区の牧師として、おもに財務の担当をしておりましたが、教区から援助して、各教会に信徒牧会者を育てるというプログラムを推奨していました。その信徒牧会者の中にも、過去にたいへんな傷を負われた方が、すばらしい信徒牧会者になられている方がいたことに気づされました。 

そして同じプログラムを、2016年から、日本福音ルーテル東京教会でも導入したいという話を、その前年の2015年に聞かされ、カリフォルニアにいたときから、手伝っています。 そして、ルーテル東京教会には、2017年には信徒牧会者になられた方が10人以上います。

その方々の中にも、やはり、過去に「いつ死のうか」と考え続けたとか、小さいころからいじめにあい、それこそ60年間、引きこもっていた方などがおられるのです。 現代においてもボロボロになってしまった期間、傷だらけの過去をお持ちの方が、傷だらけで復活されたイエスによって、復活の命に預かり、神さまの働きに導かれるということも起こります。 

どんな失敗を過去にしていようが、恥ずかしい思いがあろうが、ボロボロの人生になっていようが、今週も新たに、十字架刑にあって墓に葬られても復活される主イエスの憐れみによって、新たに生かされますように。アーメン。