4月19日の説教から「あなたのもとに」

説教

説教 「あなたのもとに」   角本浩牧師

本日与えられましたヨハネ福音書20章には、二つの日曜日のことが書かれております。 出だしに、「その日、すなわち週の初めの日の夕方」と書かれております。 

「その日、すなわち週の初めの日」。

これは何の日かと言いますと、イエスがご復活なさった日です。 先週、私たちはイースターの日曜日を迎えましたが、その日です。その、日曜日の夕方に起こった出来事。それが初めに記されております。

もうひとつは、後半です。そこには、「さて八日の後、」と書かれております。 日曜日から、日曜日にかけてですから、八日となっております。つまり、次の日曜日ということ。 わたしたちも、今日、イースターの次の日曜日を迎えております。まさに、この日。それがここに記されております「八日の後、」です。 イエスがご復活なさった日曜日の夕方、そして、それから一週間後の日曜日、この二つの日曜日に起こった出来事です。

皆様もご存知と思いますが、キリスト教会は、日曜日に礼拝を守ることを基本としております。現実には、さまざまな理由から、日曜日以外の日に礼拝を守る教会もあります。 二つ以上の礼拝を一人の牧師が担当するために、曜日を替えることもあります。 反対に、東京など都心の大きな教会では、複数の牧師がいて、さまざまな職業の方々が都合の良い日に集うことができるようにと、毎日のように礼拝をしておられるところもあります。 でも、基本は日曜日。その理由は、イエス・キリストのご復活が日曜日、週の初めの日だったからです。曜日をかえて礼拝を守っておられるところでも、その意味は失うことなく、主の日として礼拝を守っております。

今日、2020年4月19日という、この日曜日は、いったい、あのイエス・キリストのご復活から数えて、何回目の日曜日なのでしょうか。 数える必要はありませんが、でも、とにかく、主イエスの復活の朝を、おぼえながら、礼拝は守られ続け、今日にまで至っております。 イエスさまのご復活から、八日の後、八日の後、八日の後、と繰り返しながら、巡って来た、新しい八日の後、それが今日です。

そう考えるならば、本日の個所、後半の話、「八日の後、」と書かれている日。それは、主イエスの復活のあとの、記念すべき最初の日曜日だった、と言えます。 復活の主と出会った最初の弟子たちが集った日。それが、ここに記されている、「八日の後」という日であったと言えましょう。

さて、その記念すべき日、そこには何があったのか。 信仰があったのか、と言えば、そうではなく、むしろ、疑いがあったようです。 「主の復活などあるのだろうか」「そんなもの、信じない」という不信がありました。 代表選手は、ディディモと呼ばれるトマスです。 彼は、今日の話の前半、週の初めの日の夕方、皆が集っていたのに、ちょうどそこに居合わせなかったようです。 その時、彼が何をしていたのかわかりません。聖書もそこは少しも興味がないようです。 でも、他のお弟子たちが集っていたのに、トマスだけ、いなかった。

あとで合流すると、みんなは興奮冷めやらぬ様子で、「イエスさまと出会ったよ」「イエスさまは復活なさったんだ」「この部屋は鍵もかけられていたのに、気が付けば、イエスさまは私たちの真ん中にいてくださって、あなたがたに平和があるように、って祝福なさったのだ」と口々に報告をする。 それを聞きながら、「本当!?それはわたしも会いたかったなぁ」と言ったのではなく、トマスは、「そんなもの、信じるか。」「死んだイエスさまが復活したというのなら、あの時、十字架上で釘で刺された跡を見て、そこに指でも入れてやらないと、わたしは絶対に信じない」といった剣幕でした。

まあ、冷静に考えてみれば、このトマスの言っていることは、そんなにおかしなことではないような気がいたします。同じ立場なら、誰もが、この時のトマスのような気持になったのではないか、とわたしは思います。 このトマスについて、聖書には、「ディディモと呼ばれるトマス」と書かれております。ディディモというのは双子という意味です。 なぜ、双子と呼ばれていたのか。いくつか説が生まれました。

たとえば、トマスには本当に双子の兄弟がいたのでは、という説。また、一方、彼の性情が、妙に現実的な面と、カーッとなりやすい激情的な面があるようで、二面性を持っているために、こんな呼び方をされた、という説などがささやかれるようになりました。また、こんなことも言われました。トマスには双子がいる。それは誰か。それは、この聖書を手にしている皆であると。あなたも、私も、トマスの双子。

 つまり、ここで疑い深い心持でいるトマスと同じ存在は、実は、あなた自身なのだ、と聖書は告げているというのです。これはとても示唆に富んだ考えだと思います。

日曜日に礼拝を守る私たちは、どんな存在か。 それは、なにかあると、すぐに神様に背を向けてしまう、・・・ふとしたことで、すっかり祈りを失う、・・・希望を失う、信仰を失う、・・・そんな弱いトマスのような私たち。 そんな私たちが、礼拝をする者として導かれております。

そのような私たちのもとに、主は来てくださいます。 信仰の弱いわたしたちを、「だめなやつだ」とお見捨てになるのではなく、そのような私たちのもとに、主は来てくださる。 「あなたに平和があるように」と大きく救いの御手を広げて来てくださいます。 それが、復活の主です。

繰り返しますが、今日の個所には、ふたつの日曜日のことが書かれております。 ひとつめは、主イエスがご復活なさった日の夕方のこと。その時、集った弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていたとあります。 イエスの弟子だとわかると、自分たちも同じ目にあって、殺されてしまうかもしれない、そういう恐怖の中、集っていたのでしょうか。

後半の話は、今度はトマスを交えて、みんなで、同じ家の中で、鍵を閉めていました。 初めに、復活の主と出会った弟子たちは、疑いの心に満ちたトマスと一緒にいました。そして、同じ状況を作りました。 疑い深いトマスを、イエスは受け入れて下さったのですが、実は、弟子たちも、同じようにトマスを受け入れていたことがうかがえます。

さりげないことですが、これは大事なことと思います。これが教会の始まりなのだと思えます。 教会は、こういうゆるしあう群れ、受け入れ合う群れなのだよ、と教えているようです。 事実、最初においでになったとき、イエスさまがおっしゃったことは、「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」でした。 ただ、罪の赦しについて告げられました。

そして思い起こせば、そもそも、突然訪れたイエスさま。弟子たちのもとに現れたイエスさま。・・・「おまえたちは、あの時、逃げ出して、わたしを見捨てたな」と責め立てるところから始まってもおかしくなかったと思います。そちらのほうが、自然でしょう。 でも、弟子たちのもとへおいでになった主イエスの第一声は、「あなたがたに平和があるように」でした。弟子たちは、この時の、「あなたがたに平和があるように」という主の言葉を、一生忘れられなかったことでしょう。

そして、その祝福、ゆるしをたずさえて、歩みだす。週の初めに集まって、復活の主の祝福を受けて、歩みだす。それが、教会の姿となりました。 これが、神さまの新しい民となりました。 それは、八日の後に生まれました。 創世記には何と書いてあるでしょうか。一日目、二日目、三日目・・・と続いて、七日目を、神さまは、安息の日となさいました。

週の初めの日は、一日目です。と同時に、それは、八日目。新しい創造の日です。 それは、罪赦された者の讃美の日。罪赦された群れの礼拝する日。 今日、私たちはその喜びの日、復活を祝う日、復活の主に祝福されている平和の日を迎えました。

世には、恐れがあります。あの日の弟子たちのように、私たちも閉じこもっていたい毎日です。新型コロナウィルスの影響もいつかはなくなります。でも、それがなくなっても、この世界で生きていくのは、いつも困難があります。つまずきがあります。争いがあり、悩みがあり、痛みがあり、裏切りがあり、孤独があり・・・。

そのような私たちの真ん中に来て、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださる主を、しっかり仰ぎながら、歩んでまいりましょう。 イエスさまは復活なさいました。あなたにいのちを届けるために、救いを届けるために、大いなる赦しと、憐れみを携えて、復活なさいました。 新しい日々の上に、神さまの導き、平安、祝福が、皆様のうえに豊かにありますように。 

アーメン