9月12日(日) 説教「間違っても大丈夫」 

2021年9月13日お知らせ, 説教

「間違っても大丈夫」 福音書箇所 マルコ8章27-38節

主イエスキリストの恵みと平安が、このウェブサイトを通じて読まれる方々の心の中にも豊かに注がれますように。アーメン。

私は浅野学園という中学高校で学びましたが、浅野セメント(後の日本セメント、小野田セメント、さらに太平洋セメントに変わったと思いますが)の創業者、浅野総一郎という方が創立した学校でした。

いっぱい失敗や間違いをしても立ち上がる、七転び八起ならぬ、九転十起という言葉を座右の名にされていた方でした。失敗を愛情ぶかくゆるし、そこから学ぶことの大切さを説いていたのです。そして、この九転十起と、愛という言葉を校訓にして浅野総合中学をはじめています。

というのは、浅野総一郎は、浅野学園の校長先生には、同志社を卒業した水崎基一というキリスト教徒になってもらっていることも大きく影響して、そのような校訓になっていたと思います。

さて本日与えられた福音書、16章におよぶマルコ福音書のなかで、前半の最後、8章の最後をさきほど拝読しました。 今日の拝読箇所以前、8章の前半までは、イエスの宣教活動は安定した上り坂でした。しかし、今日の箇所以降は、イエスの急激な下り坂のようであります。 

8章半ばまでに書かれたことは、イエスは多くの人々の生活を大きく変えることに成功しました。 たとえば、イエスは奇跡的に病人を癒したり、目がみえない、耳が聞こえない、しゃべれない人々を見事に、目をみえるようにしたり、耳が聞こえるようにしたり、しゃべれるようにした。 あるいは、5000人の空腹のなかにあった人々、さらに4000人もの人をも、わずかな食料にもかかわらず、満腹にしました。 

そのイエスの姿は、まさに全能の方、最高の医者のようでもあり、偉大な政治家にもなれそうな人でした。それに従っていた弟子たち、イエスに感服していたに違いありません。

そんな中、8章の最後、今日の聖書の箇所あたりで、様相が変わってきます。イエスは、弟子たちに「あんたがたは自分のことを誰だというのか?」と質問します。 そこで、ちょっとおっちょこちょいのようなところがあるペトロは、「あなはメシア」であると答えました。これはすばらしい返答で、大正解でした。 しかし、ペトロには、またも大きな間違いがありました。 

またも、というのは、ペトロさん以前は、イエス様が湖の上を歩かれたとき、自分も歩けると思い、イエスの方に向かっていきます。そのまま信じていれば、イエスは歩かせてくださることもできたでしょう。しかし、自分のおごり、不信仰によって、おぼれそうになり、イエスに湖から救い挙げられました。

今日の箇所、イエスの質問に立派に答えたペトロ。メシアという言葉で答えましたが、どういう意味なのでしょう。 ヘブライ語をそのまま使ってますが、英語にもなっていてメサイヤで、深い意味があります。神に油注がれたもの、がもともとの意味です。旧約聖書の世界では、いわば超人的な英知と能力を持ってイスラエルを治める方、救い主の意味です。

つまり、ペトロのいだいたイメージは、イエスがこれから、超人的にイスラエルを政治的にも治めて、ローマの圧力からも解放してくださる、そんな感覚で、メシアという言葉を使ったように思われます。

すると、イエスは、弟子たちにとってそんなことバカな話あるかという話をはじめます。自分はユダヤ教の指導者たちによって、排斥され殺されること、しかし三日目には復活することになっていることを話すのです。

ペトロは復活するなんていうことは聞いていなかったと思います。最後まで話をよく聞かずというか理解することができないまま、イエスに反駁します。 「イエス様、そんなことがあってはなりあませーーーん。」 

するとペトロは、イエスから「サタンよ、引き下がれ」つまり、悪魔よ引き下がれといわれてしまいました。 悪魔と呼ばれてしまう、ペトロ。 イエスは、ペトロの間違いを指摘されているのです。 そして、イエスは、私に従いたいものは、自分を棄て、自分の十字架を担いで歩むように。という話をされます。

いったい、イエスは、弟子たちに、本当に何を言いたかったのでしょうか。 また、今日の福音書を通して、主イエスは現代の私たちに何を教えようとされているのでしょう? 

イエスは、圧倒的な軍事力をもって、イスラエルを治める政治家ではありませんでした。そして、イエスに従うことは、権力をもつことでもなく、金銭的に裕福になって有名になる、いわば、ドナルドトランプさんのような人間になることでもありません。

イエスは神の子であり、同時に人の子であり、それは神が創造されたすべての人類の一人一人の魂を、愛でつないでいくような方でした。そして、全世界の逆境におかれた、小さき者に、心のセイフティネットを造っていくような方でした。そして、神が人の子として生まれ、十字架にかかって、人類が体験する苦しみをいっしょに体験し、またわたしたちの間違いや失敗、恥をぬぐってくださるような方なのです。

そして現代を生きるわたしたち、イエスが体験したような十字架刑までを体験する可能性はとても低いと思います。しかし、イエスの言われる十字架を担ぐとは、私たちが生きていくなかで、たいへんな痛みを体験するということだと思います。

「安達牧師さん、キリスト教を信じることが、痛みを体験することなんて、健康で長生きができて、経済的にも豊かで、楽しくなることを教えないのですか?」 といいたくなる方がいるかもしれません。

申し訳けないですが、それは、ペトロの間違いと同じ間違いがをしておられると思います。キリスト教は、痛みを体験しないとか、お金持ちになるなどという、御利益宗教では全くありません。

どんな困難が訪れようが、イエスの信仰において、父と子と聖霊なる方がそばにいらしてくださること、その困難をいっしょに体験してくださっていることを、イエス自らが保証してくださっています。 

そして、イエスが三日後に死から復活されたように、私たちの死さえも、イエスの死と復活によって滅ぼして、永遠の命に与れることを、洗礼を受けて聖餐を受けつづける信仰生活を歩む中で、確信できる道を歩むようになっていくことをを、ぜひ覚えておいて欲しいのです。

イエスの愛と慈しみにより、つまり世の救い主メシアにより、私たちが、間違いをくり返し転ぶような人生でも、毎週日曜日には、主に喜びをもって起こされて、永遠の命の道を歩んでいます。

ちなみに、ペトロさんは、この後も繰り返し、いうなれば、間違いの連続のような人生です。 究極は、イエスが十字架にかけられることがわかると、主なるイエスを、「知らない」知らない、知らない」と3連発して、イエスを拒絶してしまったのです。

でもそのようなペテロを決して見捨てない、イエスがおられたのです。そして、わたしたちも、間違い、恥ずかしい失敗など何度おかそうが、起こしてくださるイエスがおられます。 決して気のめいってくるような話では終わりません。

おもえば、21世紀にはいって9.11がおこりました。昨日がその20年が経ったことを覚えました。それから、世界の歴史は、異常気象や近年のコロナ禍、転ぶことばかりのように思います。 気がめいります、でも主が励まして、新しくしてくださっています。

イエスの信仰により、今後どんな間違いをしでかすかわからない人生であろうが、どんな苦しみを体験するかもしれない将来かもしれません、しかし、主にある永遠の命、喜んで歩んで参りましょう。 アーメン
(安達均)