3月8日(日) 聖書箇所よりショートメッセージ「イエス」

説教

与えられた聖書箇所、ヨハネ3章1節から17節のなか、後半の14節から16節には以下のように書かれています。「14: そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15:それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 16:神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

イエスが語っている言葉ですが、いったい「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」とはどういうことなのでしょう。 それは、民数記の21章に書いてあるのですが、紀元前1200年ごろに、モーセに引率されたイスラエルの民、何十万もの人々がエジプトからイスラエルに40年もかかって移動していたのです。 その途中で、民は神とモーセに文句を言い始めました。「こんな粗末な食べ物ではもうやってられない。なんで私たちをエジプトから導きだしたのか。」 そのような民に向かって、神は行動を起こされたのです。 炎の蛇を送って、民をかませたのです。そして、多くの死者まで出てしまったのです。そこで民は猛反省して、「わたしたちは罪をおかしました」という罪の告白をし、蛇を取り去ってくれるように祈ったのです。 神はモーセに「青銅の蛇をつくり旗竿につけて掲げるように」と命じ、「蛇を仰ぐものが命を得る」と言われたのです。そして、事実、蛇にかまれたものが、竿を見上げると命を得たのです。

このような過去を認識した上で、イエスは、これからイエス自身がどうなるかということを語るに際し、棒につけられた蛇にたとえて話しているのです。 つまり、神の気持ちもよくわからずに文句をいった民が、罪を認め、棒に上げられた蛇を見上げて赦され新たな命を得たように、洗礼を受け、罪を告白し十字架にかかるイエスを信じるときに、新しい命を得るという事を、イエスがニコデモに語りたかったという事でしょう。 

わたしたちは、現代においても罪深い人間たちです。昨今の世界のリーダにしても、それを選んでいる民も。そして、最近の新型コロナウィルスのような事態をみて、みなさん、どう思われているでしょう。 そのような私たちに、神はひとり子イエスを送ってくださいました。そして、棒につけられた蛇のように、イエスがいまだに十字架につけられているようなところがあるのです。それは私たちの罪を赦すために、イエスが蛇のような呪われたものになってくださっているのです。それほどまでに、神はわたしたちを愛してくださっているのです。 ただ、わたしたちは、イエスを、それも十字架にかかってくださっているイエスを見あげる、その信仰によって、ただしいものとされ、永遠の命を賜るのです。 

それは決して、この世で永遠というわけではなく、天に召されても、ともに主なるイエスが歩んでくださる、そういう永遠の命です。