4月5日(日) 説教「十字架のつながり」マタイによる福音書27章32-54節
主イエスキリストより、主の恵みが一人一人に与えられ、そして、あなたに造られているわたしたち人間に平安がもたらされますように!
十字架はキリスト教の象徴と言って良いでしょう。私たちは、この十字架上で死に三日目に復活したイエスを信じています。それにしても、なぜ、主イエスは、十字架で死んでしまうのでしょう? 神なのだから、十字架にかけられても、たくさんのハトを天から舞い降りて来させ、釘を全部とりさって、自らは十字架から逃れることはできなかったのでしょうか? もし、そのようなことがおきても、人はイエスが神だと信じて、宗教としてのキリスト教が起こったのではないでしょうか? また十字架から逃れたイエスということで、十字架がキリスト教の象徴になったのではないでしょうか?なぜ、キリストは十字架上で死に墓に葬られるまで及ばなければならなかったのでしょう? 十字架に架けられた時の状況を今日の聖書箇所からよく考えてみたいと思います。
イエスは他の二人の罪人とともに、三つの十字架が立つなかの、真ん中の十字架に架かっています。 そして、実は、私が質問した内容は、今日の聖書箇所にも書かれていたのです。 それも二回も。 一つ目は、そこを通りかかった人々が、40節で、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 また、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒になって、イエスを侮辱して、42節「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」 その場面で、イエスは神であり、言われた通りに、奇跡を起こして十字架から降りて来ることはできたでしょう。 しかし、なぜ、そうしなかったのでしょうか?
それをしてしまうと、自分だけを救うという誘惑に陥ることになってしまったといえると思います。いや、となりの罪人たちも含めて、奇跡を起こせば、自分だけではなくなるじゃないかと言われるかもしれませんが、3人だけ救えばよいということでもなかったのでしょう。イエスの宣教開始前に、イエスが悪魔からの40日間の誘惑を受けていたときのことを覚えておられますか? その時、イエスは神殿の屋根の端につれて行かれて、「神の子だったら、飛び降りたらどうか。天使たちがあなたを支えるだろう。」と悪魔に言われてます。そこには、自分の身を守るということは、決して悪いことではないのですが、イエスの置かれた状況のなかに悪魔の誘惑があって、神の意思から離れたことに従ってしまうことになってしまう。 神の意思から離れてしまうということが、とても大きな問題だったということができるでしょう。
結局、イエスは十字架上で死んでしまうのです。しかし、51節後半-53節には、「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」という描写があります。これは、マタイ福音書だけにある記述で、聖書にこんなことが書いてあったのかと思う方もいるかもしれません。 このマタイの記事は、イエスの救いは決して、イエス自身の救いではなく、すでに死んでいた者たちも含めて、すべての人間に与えられている救いであります。
今日のマタイが伝えた箇所から私たちは何を学んでいるのでしょうか? まずひとつめとしてイエスを信じるということは、イエスだけが復活するということではないということ。ふたつめ、イエスを信じている自分だけが復活の人生を歩めるというわけでもないということ。 それは、イエスのことを何も知らずに、墓に葬られた人々にも永遠の命を与えなおしてくださるような面があるということではないでしょうか。とくに、先祖はキリスト教ではなかったけど、自分が初代のクリスチャンという方にも、たいへんな福音だと思うのです。また、イエスは、キリストの体である教会を侮辱してののしっていたような人の救いをも覚えて、イエスは十字架に架かられ死なれたのです。それは決して、イエスを信じずに、また教会を侮辱して生きていけばよいのだということではありません。
むしろ、その十字架に示された神の愛に気づかされた時に、私たち人間はどのように生かされていくかです。キリストの信仰、神から賜わる信仰は、次のように言うこともできます。十字架に架かられ、死に葬られ、復活するイエスキリストの信仰は、私たちが神とつながる信仰であり、また神の創造されたすべての人々とも、時代を超えてつながる信仰であります。
いま、たいへんないきおいで、新型コロナの感染が広がっていて、人間同士は互いに接触しないようにしなさい。という事態の真っ只中にあります。そのこととも関係があるのだと思うのです。 イエスキリストの信仰にあずかるとき、自分と主との関係だけによって、あとは、主なるキリストがすべての人々とつながってくださいます。イエスは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」 その枝一本一本、ひとりひとりが、木につながる、イエスにつながっている状態を意識して、この受難週歩んでまいりましょう。 だいじょうぶです。