10月25日(日) 説教 「真の愛によって」

説教

聖霊降臨後第二十一主日(2020年10月25日 松橋教会)

                           「真の愛によって」 マタイ福音22章34-46節

本日与えられましたマタイによる福音書22章のみ言葉、ある牧師がこの個所で説教をなさるのに「最後の問い」という題をつけておられました。

最後の問い。そうなのです。今日の個所は、最後の問いが投げられたところです。

本日のみことばの終わりのところで、これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。とある通りです。

ここに至るまで、色々な人が来て、イエスに質問をしています。

でも、もう、尋ねる者はこの後なかったと。これが最後になったと。

どうして最後になったのか。

その理由は、じゅうぶん目的を達成できた、ということが考えられます。

そもそも彼らがあれこれ質問したり、論争を吹っ掛けたりしていた目的は、イエスの言葉尻をとらえて抹殺するためでした。「この男は、確かに罪を犯しました」と言って証拠をつかんで、刑に処するためでした。

そのために、じゅうぶんな材料を彼らは手にしたと考えられます。

では、イエスはここで、何を語られたのか・・・それは、次の言葉でした。

イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。/『主は、わたしの主にお告げになった。/「わたしの右の座に着きなさい、

わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』

このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」 

これは、読んでみて、何かよく分からないと思われた方も多いのでは、と思います。

一つの結論を申し上げますと、イエスは、ここで、御自身がメシアであるということを、言われました。

御自身が、「天から来られた神の子、救い主だ」とおっしゃいました。

ご存知のように、今年は2020年。それは、キリストが来られて2020年目です。だから、それ以前は、BC、ビフォアクライスト、です。キリスト以前です。

人々は、やがて来られるという神の子、救い主・・・救い主のことを、ギリシア語でキリスト、ヘブライ語でメシアと言います。日本語では救い主。このお方のおいでになるのを待っていました。そしてついに来られたイエス、「私がそのメシアだ」と。

そのおいでになるメシアについて、当時ユダヤの人々は、「ダビデの子がおいでになる」と言って、信じておりました。事実、福音書を読んでおりますと、イエスを見て、「おお、ダビデの子よ」と叫んでいる人たちが少なからずいたことを知ることができます。

ご存知の方もおられると思いますが、私、熊日生涯学習プラザの聖書講座の講師をしております。先週から始まりました熊日聖書講座、今回はちょうどダビデについて取り上げております。関心ある方は是非お出で下さい。

ダビデは、旧約の中で有名な人物、ベストファイブ、またはベストスリーに入るでしょう。モーセ、アブラハム、エリヤ、あたりが、よく思い出されると思いますが、人によっては、旧約の最も有名な人物は誰?と聞かれて、最初にダビデという人もいると思います。

ダビデは、イスラエルの王、それも、もっともいい王様であったと言えます。

伝説的なほどです。今風に言えば、レジェンドです。ダビデの時代、イスラエルはもっとも繁栄し、もっとも民衆は平和に過ごしたといえます。

のちに混迷の時代などを過ごす中で、神さまは、「やがてダビデの子孫の中から、救いが起こる」とおっしゃっていました。

だから、人々は、やがて訪れる神の子、救い主は、ダビデの子であると信じました。

ところが、そのダビデ自身がかつて読んだ詩編の中で、「私の主」と歌いました。

やがて来られる救い主は、ダビデの子、ダビデの子、と呼んでいるけれども、そのダビデ自身が、「私の主、私の救い主と呼んでいるではないか。」と。

ダビデは「私の主」と言っている。それは、誰に言ったか。ダビデは、「私に言ったのだ。」ダビデはわたしに向かって、「主よ、真の救い主よ」と言ったのだ、と。

繰り返しますが、この瞬間、彼らは、もう質問する必要はなくなったと思いました。

自分が神の子、救い主だと言いやがった、と。神を冒瀆する者だ、と。

そのため、これが彼らの最後の質問となりました。

でも、これは同時に、イエスからの最後の質問ともなりました。

「あなたがたはこれを聞いて、どう思うか」と。「救い主をどう思うか」と。

「神の救いをどう思うか」「あなたはどうやって救われると思うか」と。

「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」

この質問に対して、彼らは、「ダビデの子です」と答えました。メシアは誰の子ですか、と言われれば、「はい、ダビデの子です」と迷いなく答えました。

でもイエスの質問は、実は、もうひとつでした。

「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」

「メシアのことをどう思うか」と言っておられます。彼らはこれに答えておりません。

でも、おそらく「ダビデの子」という答えが、彼らの思いを示しています。

それは、もう一度、あのダビデ王の時のような繁栄の時代を復興させてくれる、そんな英雄として、メシアはやってくる、ということ。

人は、自分の願望にあわせた神を望みます。

豊かな生活をかなえてくれる神、病気を治してくれる神、幸せな人生を約束してくれる神、それを実現させてくれる、私の願いをかなえてくれる神を、望みます。

その思いが、「救い主は、ダビデの子」という思いに込められています。

当時の時代背景を思えば、支配国ローマ帝国を倒して、イスラエルに勝利と平和をもたらしてくれる、英雄のような存在。まさに「ダビデの子だ、ダビデの再来だ」と思えるような人物の到来、それが救い主への期待であったと言えましょう。

でも、実際にはどうだったか。イエスは、どんな御方だったか。

今日、私たちはマタイによる福音書22章を読んでおりますが、聖書を開いて、このあとパラパラとページをめくると、イエスは捕らえられ、見捨てられ、たらい回しにされ、十字架に付けられます。唾をかけられ、殴られ、蹴られ、侮辱され、血を流されます。

人々は、十字架にかけられ、無残に殺される神の子など、想像もしませんでした。

まして、そのような苦しみが、実は、自分自身を救うためのものであること、救い主の愛によるものだとは、思ってもみませんでした。

神さまは、「天の高いところにおられる」とか、「怖い裁き主である」とか、「全知全能のお力でなんでもお出来になる」とか、あるいはまた反対に、神さまと言えば、「私たちの願い、普通ではかなえられない願いをもかなえてくださる」とか、「とんでもない奇跡を見せてくださる」とか、そんな様を思い浮かべるでしょう。

神さまが、まさか、「貧しい馬小屋でお生まれになる」とか、「普通の大工さんの家に生まれる」とか、そもそも「私たちと同じお姿で来られる」とか、考えません。

まして、このお方が、「誰よりも低く、低く、へりくだって、」そのあげく、「捨てられて、殺される」なんて思いもよりません。

今日の個所で、前半部分に、聖書の最も大事な教えは、神を愛すること、そして隣人を愛することとありました。

隣人を愛することについて、かつてイエスは教えられたことを思い出します。

倒れている旅人がいる。祭司や、レビ人が通りかかったけれども、無視して通り過ぎた。でも、サマリア人は、この旅人を助けてくださった。他人であるのに、民族も違うのに、友人以上に、家族以上に、誰よりも親切にして、親身になって助けてくださった。

そして、そのお話をしながら、「隣人とは誰か。」と問われました。

私たちがもしも、自分自身の罪深さに気づくなら、私たちがもしも自分自身の弱さに気づくなら、私たちがもしも自分自身の自己中心に気づくなら、・・・

あの救いようもなく、倒れている旅人こそ、自分の姿であることを知ります。

そして、その倒れている自分のそばに来て、助けてくれる御方を知ります。

「思いを尽くし、力を尽くし、命を懸けてあなたを救ってくださるのは誰か。」

「あなたはメシアについてどう思うか。」・・・イエスさまの最後の問いでした。

その問いを発しながら、イエスさまは、十字架への道を歩んで行かれました。

最後の歩みを進まれました。

「ダビデの子」・・・イエスさまは確かにそう呼ばれました。

思い起せば、ダビデは、かつてゴリアトというとんでもない大男を、槍も剣も鎧もなく、羊飼いの姿のまま、倒しました。英雄です。

神の子イエスは、どうでしょう。この御方は、私たちの前にたちはだかるあらゆる悲しみ、不条理、絶望から、守ってくださいます。やはり、剣も槍も鎧も持たず、ただ羊飼いとして。まことの羊飼いとして、私たちを守ってくださいます。

私たちには、人生の最後に、最大のゴリアトがやって来ます。死という名のゴリアトが。これに勝てる者はいません。

かつてゴリアトを前にして、イスラエルの民が震え上がって、「これは勝ち目がない」と観念したように、わたしたちは、最後、訪れる死という力には勝てない、飲み込まれる、・・・と思っています。

でも、私たちを養い、私たちを守り、私たちを死の影の谷においても、守ってくださる、羊飼いがおられます。それが、ダビデの子、神の子、イエス・キリスト。まことの救い主。

「あなたはメシアをどう思うか。」・・・イエスさまからの問いでした。

これは私たちにとっても最後の問い。きっと死ぬ時、この問いが残ります。

「死んでどうなると思うか。」「死んだとき、誰があなたのそばにいると思うか。」

「あなたを救って、永遠の命に導くことができるものがいると思うか。」

はい、わたしのために、天からおいでになられた神の子、イエスさまがおられます。

このお方が、私のために十字架にかかってくださった。

そして、復活されて、私たちにいのちの約束をして下さった。

このお方のまことの愛によって、私たちは救われます。

イエス・キリスト、このお方が、真の羊飼い、真の救い主です。

・・・そのようにお答えしたいものです。

主は、いつもあなたと共におられます。いつもあなたの隣人として、隣におられます。

主の平安が、あなたと共にありますように。

(牧師 角本浩)