3月7日(日) 主日礼拝説教 「コロナ禍の礼拝堂」ショートメッセージ
ヨハネによる福音書 2:13~22
13ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
ショートメッセージ: コロナ禍にあって、礼拝堂には人が集まれない状況が起こりました。 もう礼拝堂は必要ないなどと考えられてしまう方々がいたのは事実です。 でも、今日の箇所だけから、イエスも神殿が必要無いなどと言われているとは考えににくのです。 イエスはルカ福音書2章で「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前」とおっしゃっていたこともあります。 この聖書箇所と同じ場面を、マタイ、マルコ、ルカではイエスがイザヤ56章の言葉を引用して、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。」という言葉を語っています。 祈りの家であることをどこか置き去りにし、商売にしてしまう、あるいは現代では神殿なる教会を自分のステイタスのために政治利用する、そのようなことをイエスは、問題にされているようです。 コロナ禍で少人数しか集まれなくても、礼拝堂での悔い改め、賛美、み言葉を聞き祈る集まりを喜んでおられるでしょう。 そして、イエスの体が神殿であることより、わたしたちもイエスに倣い、わたしたちの体が神殿、聖霊が宿ってくださるところであることを覚え、今日からの新しい週、恵みあふれる一週間となりますように。 アーメン。 安達均