3月28日(日) 10時半 受難主日 説教「身代わりの主」
「身代わりの主」 マルコ福音15章1-39節
ヴィア・ドロローサという言葉、お聴きになったことあるでしょうか。
これはルーテル教会、いわゆるプロテスタント教会に通っていると、あまり耳慣れないかもしれません。でも、カトリック教会の方々は、ヴィア・ドロローサと聞けば、おそらく全員知っておられると思います。
それは、「悲しみの道」などと訳されます。具体的には、イエスがたどられた、最後の時間をたどるものです。
全部で14あります。カトリック教会に行かれますと、だいたい壁などに14枚の絵が飾られています。
たとえば、ひとつめは、ピラトのもとで裁かれる場面です。ふたつめは有罪判決を下され、鞭打たれる場面。その後、キレネ人シモンが現れて、十字架を代わりに担う場面とか、イエスが傷つき果てて倒れるところ、兵隊たちによって衣服をはぎ取られるところ、そして十字架上での死から、ついに、最後の14番目の絵は、イエスが墓に葬られるところ、となっています。
特に、今の時期、四旬節の時期では、カトリック教会ではその14か所の場面、一つ一つの前に行っては、祈りを捧げる。イエスの歩まれた苦しみの道を、たどりながら、歩み、祈るという習慣がおありのようです。
それはとても意味のあるやり方であると思います。
本日、与えられましたマルコによる福音書15章、これはまさに、その歩みをたどるところでした。いつもの礼拝で読むみ言葉に比べて、長いところでした。
ヴィア・ドロローサです。悲しみの道、あるいは苦難の道とも言われます。
私自身、本日の説教を準備するために、このみ言葉を繰り返し、読み直しました。
読み直すたびに、まさに、その道をたどる思いがしました。
引き回されているからです。神の子イエスが、引きずり回されています。
祭司長ら、ユダヤ人の指導者たちから、始まり、総督ポンテオ・ピラトのもとへ、ピラトから、兵隊たちへ、兵隊たちから、集団リンチを受ける。
さらに、十字架を担がされて、歩む。そして十字架の上へ。
聖書では、引き渡す、引き渡される、という言葉が、よく出て来ます。
ここを読むと、イエスは、まさに引き渡され続けます。あちらからこちらへ。こちらからあちらへ。
それは、悲しみの道。あちらから、こちらへ。引き回され続ける歩み。
ヴィア・ドロローサ。苦難の道。
思えば、もともと、神の子イエスのヴィア・ドロローサは、天から、地上へという歩みで始まっておりました。
栄光に輝く、天の神の子として、輝き。それをすべて打ち捨てて、人の子となって、しかも、貧しい馬小屋で、飼い葉おけの中へ、と引き渡されました。
そして、地上においては、いつも罪人たちのもとにおられました。
弟子とされた人たちの中にも、徴税人など、社会のアウトサイダーたちも選ばれていました。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのだ」、とおっしゃって、罪人たちの友であられました。
洗礼者ヨハネが、「私があなたから洗礼を受けるべきです」、と言っても、「これは正しいことだから」と、イエスは洗礼をお受けになりました。
罪人たちと一緒にです。罪の赦しを乞うために、こうべを垂れて、洗礼を受ける民の中に混ざって、イエスはまるで罪人の一人のようになって、洗礼を受けられました。
今日の場面にもありました。最後の最後です。
イエスは、二人の強盗といっしょに十字架に付けられ、殺されました。
ほんとうに最後まで、罪人と一緒でした。苦難の道を歩まれた神の子、救い主の真骨頂がそこにあったと申し上げてよいのかもしれません。
今日は受難主日。神の子イエス・キリストの苦しみの道を深く思い起す主日です。
受難、苦難、悲しみ・・・。これは、ひとつ間違うと、きれいごとになりそうな面もあります。受難とか、悲しみとか、言葉で言うと、軽いものになることがあります。
けれども、これは、軽いものではないし、きれいごとでもありません。現実です。そこを、しっかり受け取らねばなりません。
ここにある話、主の担われた苦しみ。それは、わたしたちには想像しきれないことだと思います。でも、少しでも、リアルに思い起すために、きれいごとで済まされないひとつをご紹介しましょう。
イエスは、あの時、鞭でたたかれた、とあります。
これをお聴きになって、どんな光景を思い浮かべられるでしょうか。
兵士たちは、イエスを鞭でたたきました。これから十字架に処せられる犯罪者、つまりそれは、もうこれから死にゆく人です。当時、処刑を担当する兵士たちは、「もうどうせ、これから死ぬんだから」、とめちゃくちゃな虐待をしていたようです。
あの頃、使われていた鞭というのは、サーカス小屋で動物をぱんぱんと叩くような鞭ではありません。ガラスの破片が埋め込まれた革製の鞭で、それを使って打ちたたくと、肉がえぐれていくものでした。
もう二十年くらい前になるでしょうか、パッションという映画がありました。メル・ギブソン監督の映画でイエスの最後の時間、まさにヴィア・ドロローサを描いた映画でした。
それは、あまりといえば、あまりに生々しい残虐シーンが話題になりました。
その映画の中では、このガラス片が埋め込まれた鞭がちゃんと表現されていて、バシンと一発叩くたびに、イエスの体の肉片が飛び散っていく、目をそむけたくなるようなシーンの連続でした。
そのため、当時、十字架刑にあう前に、兵士たちが行うこの鞭打ちで、死んでしまう人もいたと言われます。
ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
聖書はサラリと書いています。でも、どうぞ、今後、こんなくだりをお読みになる時、すこし思い出してください。失神してしまいそうな場面であることを。
しかも、鞭打たれボロボロになったところで、自分がかかることになる十字架を担がされて歩かされます。
さきほどご紹介したカトリック教会のヴィア・ドロローサの絵には、14枚の絵のうち、3枚が、イエスが倒れる場面です。「イエス、倒れる」「イエス、二度目に倒れる」「イエス、三度目に倒れる」という場面があります。尋常ではない状態です。
もはや歩く力もない状態になって倒れる。
それで、途中、通りかかったひとりの関係のない男が、十字架を担ぐのを手伝わされていくことになったというエピソードがありました。
たまたまそこを通りかかったのが、運の尽きと言いましょうか。歩くこともままならないイエスを見て、先導する兵隊が、ちょうど目の合った人だったのでしょうか、「おい、お前、ちょっと来い」と。「代わりに十字架を担げ」と命令します。
言われたほうは、「なんだよ!」と思いつつ、それこそ鞭や槍を持った乱暴な兵士ですから、逆らえなかったのでしょう。「なんで、よりによって、おれが・・・」と思いながら、担いだことでしょう。
その名も、シモン。キレネ人シモン。
でも、まあ、不運な時というのは、そのようなものでしょう。「ああ、家を出るのが、あと一分早いか、遅いかだったら、この出来事に巻き込まれなくて済んだのに・・・」というような、ここぞというタイミング。それが、巻き込まれるタイミングです。
あの日、キレネ人シモンというこの男、本当に、ここぞというタイミングで、そこにいたものだから、十字架を刑場まで担いでいくことになりました。
でも、この不運が、彼の人生を変えました。「なんで、自分がこんなめに」というような、不条理な出来事との遭遇が、彼の人生を変えたようです。
その話は、またいつかじっくり別の機会にしましょう。
ここでは、結論だけ申し上げます。これがきっかけとなって、のちに、彼と、その家族は、クリスチャンとなりました。信仰深い生活をする人になりました。
・・・現代で言えば、・・・軽い話になりますが、たとえば、「あら、今度の休み、ひまなら、教会のバザーを手伝ってよ」と頼まれた人が、そのまま、教会に通うようになって、洗礼を受けた、というような感じでしょうか。
あるいは、何らかの不幸に巻き込まれ、不幸を味わい、味わいながら、生きるって何だろう、救いってどこにあるのだろうと考え、神への信仰にたどり着くようなこともあるでしょう。
バザーのお手伝いと、十字架を担ぐのでは違いすぎますが、要するに、申し上げたいことは、「なんで私がこんなことをしなくてはいけないの」、「なんで私がこんな目にあうの」というような、不条理な出来事を通しても、神様は人を祝福の道へと導いて下さることがあるということ。それはお伝えしたいと思います。
本日は、もうひとつのことをお伝えして、メッセージを結びたいと思います。
この個所には、いろいろな人物たちが登場しました。イエスを訴えた長老、祭司長、律法学者たち。死刑判決をしたピラト。「十字架に付けろ」と叫んでいた群衆。やりたい放題のリンチをしていた兵士たち。恩赦で釈放されることになったバラバ。
先ほど紹介したキレネ人シモン。イエスといっしょに処刑されていた二人の強盗。そして、最後のところで、「ああ、この人は本当に神の子だった」と言った百人隊長。
これらすべての人が、あのヴィア・ドロローサに関わった人たちです。
こんなにたくさんの人たちが登場して、イエスの十字架が行われる。・・・それはまるで、わたしたちすべての罪を背負って、イエスが十字架を担われたことを象徴しているかのようです。
妬みを持った人々、無責任に判決を下した人、あおられて群集心理で「十字架に付けろ」と叫んだ人、残虐性を発揮してリンチをした人たち、などなど。人間のあらゆる罪が、ひとかたまりとなって、神の子に襲い掛かって行った、・・・その結果が、イエスを引き回し、イエスを傷つけ、イエスを殺して行った、ということを物語っているようです。
みなさんは、自分自身をどこに投影されるでしょうか。
わたしたちも罪人の一人ですから、あの場面の中にいます。あなたも、イエスさまを十字架に追いやった罪人の一人です。この場面の中にいます。
一つの答え。あなたは、バラバです。
あの日、何か知らないうちに、連れ出されて、祭りの中で、よく分からないうちに、無罪放免された暴動のぬし、バラバ。・・・彼は、イエスさまのおかげで、釈放されました。
本当なら、鞭打たれ、十字架担がされ、殺されないといけなかったのは、彼です。だって、暴動を起こして、人殺しまでしていたのですから。
でも、彼は、あの日、イエスというこの罪なき神の子が、有罪判決を受け、鞭で打たれ、殺されていくことになったおかげで、自由になりました。・・・これは、あなたの姿です。
こういうふうに、あなたをゆるし、救うために、イエスさまは、ヴィア・ドロローサを歩まれました。あなたの身代わりになられたのです。
今日、この受難の主日に思い起したいのは、このことです。
そのことを、本当に受け止められる時、あの百人隊長と同じように、「この人は、本当に神の子だった」「私の救い主、私の身代わりの苦しみを担い、私を救ってくださった御方です」と告白するよう導かれます。
主は、歩まれました。苦難の道を。あなたのために。あなたの身代わりとなって。
天から来られ、苦難を担われた主を仰ぎつつ、この受難週を歩みましょう。