7月25日(日) 説教「天からのパン」
聖霊降臨後第九主日(2021年7月25日 松橋)
「天からのパン」 ヨハネ福音6章1~21節
そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。
本日のヨハネによる福音書6章、少し長い個所が与えられておりますが、その結びは、こうでした。そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。
目指す地に着いた・・・これは流れを読めば、カファルナウムという所を目指して舟は進んでいたと書かれていますから、目的地はカファルナウムであり、そこに着いたということです。しかし、聖書は、カファルナウムに着いた、と言わず、ここであえて、目指す地に着いた、と書いてあります。意味深い書き方です。目指す地。目指しているところ。
この世の大海原を進むあなたという舟は、どこを目指して進んでいるのでしょうか。
これは、今日のみことばの問いです。私たちひとりひとりへの問いです。この問いを投げつつ、聖書は、私たちに何を伝えようとしているのか。ご一緒に振り返ってみましょう。
二つの話があります。ひとつは、男だけでも五千人いた群衆を、イエスが五つのパンと二匹の魚だけで満腹にさせてくださったという話。もうひとつは、弟子たちの乗った舟が波風で荒れるとき、イエスがその水の上を歩いて来てくださったという話です。
最初の話は、パンの話です。男たちが五千人・・・ということは、女性や、子供たちも入れたら、1万人は超すのでしょう。
今、高校野球が行われている県営藤崎台球場、あそこが内野席をいっぱいに座ると、1万人ちょっとのようです。外野の芝生席を使わずに、内野席だけ座った状態。それが1万人ちょっとの人数です。
仮に今日の話、1万人ほどがいたと考えておきましょう。
5節のところにイエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、 とあります。藤崎台球場内野席が一杯になるくらいの人々が押し寄せてくる、という様子です。
その群衆をイエスは、目を上げて、ご覧になっておられました。
たいへんな奇跡の連続を紹介する個所です。そのため、つい見落としがちですが、イエスはまず、この群衆を「目を上げ」ご覧になった。・・・羊飼いのいない羊たちを御覧になるように、深く憐れんでご覧になっておられる主のまなざしがそこにある、ということ、おぼえておきたいです。今日、この松橋教会の礼拝に向かって来られた皆様お一人お一人のことも、主は、目を上げてご覧になっておられる。
主のまなざしの中に、あなたがいる。そのことをおぼえておきたいものです。
さて、そこで、イエスは、弟子のフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」とお尋ねになります。
みなさんもご想像ください。藤崎台球場の内野席いっぱいの人たちがいる。今から、さあ、みんなの分、食事を用意しよう、って。松橋教会では、今はコロナで行っておりませんが、いつも礼拝後昼食をともにします。10名弱くらい。でも心づもりして用意しておきます。突然百人くらい一緒に食事したい、と押し寄せて来られたら、すぐに対応は難しいです。まして、一万人分の食事を、急にどうするか、と言われたら。
おそらく計算の早い人だったのでしょう。フィリポさんは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えます。
一デナリオンというのは、当時の日当でした。一日働いて得られる賃金。それが一デナリオンでした。仮に日当一万円で考えれば、「200万円くらいですね」と答えた。
1万人に200万円ですから、ひとり頭200円の何かを用意するということです。今なら、おにぎりとお茶とか、パンと牛乳を買ってくるという感じでしょうか。それくらい。
だから、フィリポさんも「めいめいが少しずつ食べるためにも」と言っています。みんなが腹いっぱい食べることは考えていない。最低限用意するにしても、そのくらいかかりますね、いや、そのくらいでも足りないでしょう、と答えています。
これはとりあえずの計算です。実際に、そんな大金、彼らが持っているはずもないし、まして、今どきのコストコみたいな、大きなお店があるわけではないのですから、それだけの食料を用意するのは、無理だ、と分かっていての答えです。
さあ、するともうひとりの弟子、アンデレが登場します。どういったいきさつがあったのか、彼は小さなお弁当を持った少年を連れてきます。その少年は、おうちの人に持たされたのでしょうか、パンが五つ、そして、当時はよく酢漬けの魚を食べていたようですから、そういう魚を二匹。今で言えば、おにぎりとお漬物、くらいの感じかもしれません。
それを差し出してくれた少年を、アンデレはイエスのところへ連れてきます。連れて来はしましたが、アンデレも、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。と言います。とても足りないですよね、と。
しかしアンデレがこの少年を連れて来ると、イエスは、目の前にいる大群衆を座らせなさい、とお命じになります。そして、受け取ったパンと魚を手に取り、・・・書かれていませんが、おそらく、天を仰ぎつつ、・・・感謝の祈りを捧げられます。
そうして、そのパンと魚を配られました。
イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。と書かれています。
さっきフィリポが計算したのは、最低限の計算でしたが、イエスがお配りになる時は、欲しいだけ分け与えられた、とあります。「今は、これで我慢してね」ということではなく、好きなだけ、欲しいだけ、配られた。おかげで、人々は満腹した、と書かれています。
このようなみわざを成し遂げたイエスを見て、人々は、これぞ、待ちわびた救世主だ、この御方を王様にしよう、と考えます。
それを知ると、イエスは、ひとり山に退いて行かれます。去って行かれました。
・・・私たちが何か、ご利益的な願いばかりをもって、神を求めるなら、「信仰をもっていれば、何かいいことがあるのでは」なんて考えを持っているならば、それは確かに、信仰という匂いを持ちつつも、主は隠れてしまわれるかもしれませんね。
いや、正確に言えば、主はいつも共におられるのですが、ご利益なんてものを追いかけていたら、そこにおられる主が見えなくなるのかもしれません。
さて、次の話に続きます。イエスは山に退かれた。そして、すっかり暗くなってきた。それで弟子たちは、舟に乗って、もといたカファルナウムに進み始めます。25か30スタディオンほど進んだところとあります。5キロくらいです。それはちょうど向こう岸へ行く真ん中あたり。もう戻れない、進むしかない、いや、進むにしても、真ん中に来たあたり、という感じでしょうか。・・・そこで強い風が吹き、波が荒れる。
そこへ、イエスが来られました。水の上を歩いて来られました。
その時の弟子たちの反応。イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れたと書かれています。彼らは、水の上を歩いて来られるイエスを見て、恐れたと。
聖書をよく読んでおられる方は、マタイとか、マルコにも同じ話が書かれていて、そこを読むと、弟子たちは、幽霊だと思って恐れた、と書かれているのを思い出されるかもしれません。それはわかりやすいと思います。実際、そうだったろうな、と想像もできます。
でも、今、私たちが聴いておりますヨハネによる福音書では、そうは書いておりません。何に恐れた、何だと思って恐れた、とは書いておりません。
水の上を歩いて来られるイエスを見て、恐れた、とだけ記しております。
これは単純に、大いなる御方を見て、恐れたとみてよいと思います。
地上の世界を越えた存在。恐れたというのは、漢字で恐いという字で書かれていますが、それは、畏怖の念、畏れ多い、という意味でのおそれも含まれたものと思われます。
もはや風も波も関係なくなるほど、ただ、大いなる御方、つまり神を見た、というおそれ。それは、本当に神を知った時の、人間の反応であります。
そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。恐れつつ、彼らは、この御方を舟に迎え入れました。すると間もなく、舟は目指す地に着きました。
不思議な書き方です。距離的には、まだ半分です。なのに、この出来事のあと、間もなく、時を置かず、着いたと。
たとえば、波風が激しくて、にっちもさっちもいかなかったけれども、イエスがお乗りになるや否や、むしろ風は追い風となって、彼らを目指すところまでスイスイ行かせた、というようなことなら、わかりやすいのですが、ここは、イエスを舟に迎え入れたら、目指すところに着いた、と告げます。
本日、私は、この最後の文をはじめに取り上げ、問いかけました。
私たちの目指すところはどこなのだろうと。
ルーテル教会におりますと、あまりカルヴァンという人の話をすることがないのですが、ルターと同じ宗教改革者。スイスのジュネーブを拠点にして、宗教改革を行った人です。彼の書いたジュネーブ教会信仰問答という書があります。ルーテル教会で言えば、小教理問答書のようなものです。その問い一は、こうあります。「人生の主な目的は何ですか。答え。神を知ることです。」これだけです。しかし、なんと深い一言だろうと思います。
繰り返しますが、私たちは今日問われています。世の中という大海原を進んでいるのですが、あなたという舟はどこを目指していますか。その舟はどこへ行くためのものですか。
彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。
お腹いっぱいパンを食べさせてもらった話が初めにありました。でも、いくらお腹いっぱい食べても、時間がたてば、空腹になります。なぜなら、それは朽ちるパンだからです。物質だからです。そして、物質的な食べ物を食べて生きている私たちの体も、やがて朽ち果てます。最後は死にます。・・・それが目指すところでしょうか。
群衆を御覧になりながら、イエスさまはフィリポに尋ねられました。「パンは、どこで買えばいいだろう」って。この人たちを養うパン、この人たちを生かすパンは、どこにあるのかと。
これは本来、食べてもやがてまた空腹になるパンのことではありません。
それを差し出す王となることは、イエスさまは、お望みにならず、退かれましたから。
そうではなく、決して消えることのない、朽ちることのないパン。それは、地上では得られません。
それはどこから?・・・天からです。
私たちにまことの命、永遠の命をお与えになるのは、私たちを愛し給う神様からやって来ます。それは何か。天から来られた、ひとりごイエスさま、この御方です。
今日、この後聖餐式を行います。パンを裂いて、「これはキリストの体」と言ってパンをいただく聖餐式は、尊い儀式です。天から来られて、御自身の命を十字架上でお献げになったことにより、わたしたちに永遠の命を与えられたことを教えます。
このまことの主、朽ちることのない天からのパンであるイエスさまを、あなたの舟にお迎えする。それが、目指すところです。
あなたという舟に、この天からのパンを迎えなさい。今日のみことばはそのように告げておりました。どうぞ、あなたという舟に、この御方を迎え入れてください。あなたの舟は、その時、御国、救い、真の喜びに向かってすぐに進み始めますから。 (角本浩)