3月27日(日) 「おかえり!」

2022年3月30日お知らせ, 説教

ルカ福音15章1-3、11-32節


イエスのなさったたとえ話。たくさんありますが、その中でもおそらく最も有名で、最も愛されているのが本日与えられましたルカ福音書15章の「放蕩息子のたとえ」でありましょう。「今日初めて聖書というものを見た」というのでなければ、おそらくみんな知っている。あるいは仮に今日、初めてこのお話を読んだ、という人も、きっと印象深くこれをおぼえていただけると思います。

さて、「放蕩息子の話」と呼ばれていますが、読めば読むほど、放蕩息子の弟だけのストーリーではない。後半になって登場してくる兄にまつわる事柄もとても身につまされるものがあると思えます。この話をイエスは、ファリサイ派の人々や律法学者たちを意識して語られたようですから、むしろ、「わたしは正しく生きています」と言っている兄のほうこそよくよく考えなければならないようにも思えます。

さらに言えば、この次男にも、長男にも、一所懸命愛情を注いでいるお父さんの姿こそ、いちばん注目しなければならないことかもしれません。
放蕩の限りを尽くして、帰ってきた次男坊を迎えたお父さん。大宴会を開いて歓迎しました。喜んでいるのは、放蕩息子ではなくお父さんです。また、その宴会の最中に、すっかりすねてしまっている長男のところに出て行って、一所懸命なだめているお父さん。「さあ、おいで、一緒に喜ぼう」と招いているお父さん。
このたとえ話は、放蕩息子のたとえ話と呼ぶより、「愛情あふれる父のたとえ話」と呼ぶほうがふさわしいかもしれません。

今日、わたしは皆さんとご一緒に、この憐れみ深いお父さんの姿に注目しながらみことばを振り返りたいと思っております。どんなメッセージが聞こえてくるでしょうか。

この話に登場するお父さんは、自分の子供に「わたしの財産をください」と言われて、すぐに手渡しました。そこからスタートです。
これは、現実に考えてみると、決して良い話ではありません。たとえば、子供が「お小遣いを百万円ちょうだい」と言ってきて、「はいよ」とすぐに渡すようなものです。それは子供にとって良くないことです。子供のためを思えばこそ、親は、大人は、制限を与えます。忍耐も教えます。
でも、ここでこの父親は、ぽんと渡します。これは現実の親子の関係を見たら、おかしな姿ですが、現実の神とわたしの関係を見ると、とてもリアルです。なぜなら、この世で神様はにゅっと出てきて、私たちを止めたりなさいませんから。「プーチン、そんなことをしてはいけない」と言って神様は出てきたりしません。
私たちは自分のしたいことをする自由が与えられております。「この木から取って食べてはならない」と言われておりますが、取って食べる自由は私たちにあります。
あとは、私たちがどう生きるか。どういう道を進むか。それは私たちの自由です。自分で決めることです。

この話の次男坊は、「家を飛び出したい」「父(なる神)を捨てたい」「もう勝手に生きていきたい」と願いました。それをできます。自由なのです。無茶をする自由が私たちにはあります。出ていくのも自由、帰っていくのも自由な中で行われます。

さて、そうしてやりたい放題やることが、幸せにつながるのか・・・・彼はその後、放蕩の限りを尽くして、身を持ち崩して、食べるものにも困ってしまいます。かつての豪遊の日々はどこへやら、今は豚の餌でもいいから食べたいと思うほどになる。
そして、もはやどこにも助けを得られないとなった時、彼は父のもとへ帰ろうと考えます。そして帰っていきます。

さて、ここで父にスポットを当てます。こう書かれています。まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
お父さんは、まだこの次男坊が遠くにいるのに、見つけました。財産を使い果たして、ボロボロになって、今帰ってきた息子・・・いったいその間、何年くらいたっていたでしょうか。きのう今日の話ではありません。
この次男坊は「遠い国へ」行ったとあります。田舎からちょっと都会に出て遊んでいたのではありません。財産を手にして、彼は遠い国へ行ったとあります。日本に住む私たちで言えば、遠い国ってどこでしょう。たとえばアメリカあたりまで行ったというようなことでしょうか。
そしてそこで遊び惚けて、すっからかんになって、悔い改めて、また祖国へ帰ってくる。これはへたをすれば何十年というスパンかもしれません。

仮に無茶をして出かけて行ったのが二十歳くらいとして、遊んで遊んで今50歳くらいになって帰ってきたとする。そうしたら、もう30年もあっていない息子ということになります。しかも、すっかりやつれ果てている姿。
でも、まだ遠く離れていたのに、彼を見つけて、父親は家を出て、自分から迎えに行きます。それも走って行きます。走って行って、抱きしめ、接吻します。これが父親の姿です。
次男坊が、悔い改めの言葉を口にし始めるのですが、その言葉を聞くか聞かないかわからないうちに、大宴会を始めます。帰ってきたどら息子には、良い服を、指輪を、履き物を履かせる。常軌を逸したと言っていいくらいの優しすぎる姿です。私たちの常識的な考えからすれば、それではだめだろうという気になるくらいの優しさです。

さて、後半は兄の登場です。思いがけない弟の帰還、そしてそのための大宴会が行われていることを知った兄は、不機嫌になります。

ここでも父親の言動に注目しましょう。こうあります。兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。突然始まった放蕩息子の歓迎会が始まっていることに腹を立てた兄は、その宴会が行われる家に入ろうとしません。喜びの宴に入ろうとしません。嫌なのです。不愉快なのです。「なんであんなやつのために、宴会をやっているのか」と。

それを知って、父が出てきます。ここでも出てきます。
先ほど、まだ遠く離れていたのに、父親は次男坊を迎えに走って出ていきました。同じように、ここでも、すねている長男坊のもとに、出ていきます。「死んだと思っていたお前の弟が帰ってきた。さあ一緒に喜ぼう。おまえにも、一緒に喜んでほしい」と。

兄に対する父親の最後のセリフはこうです。
お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。
これはよくよく考えると、私たちに鋭く迫る言葉です。というのは、私たちは何を「当たり前」と思っているか、突きつけられるからです。
たとえば、次男坊は、最初、「こんな父のもとにいるのは嫌だ」「お金をもって、楽しい人生を過ごすのがいちばん幸せ」、そう考えるのが当たり前と思っていました。
また、長男坊は、そんな無茶はせず、「まじめに生きるのが当たり前」と思っていました。そして、遊び惚けて、財産を無駄遣いして帰ってくる弟など、認められるわけがないというのが当たり前だと思っていました。

でも、お父さんは、「死んだと思っていた者が帰ってくる、失われたと思っていた者が帰ってくる、そうしたら喜ぶのが当たり前」と言います。
それが神様のみこころだとこのたとえは語っています。
あなたを何としても救う。それは神様にとっての当たり前だと。だってあなたは神様の愛する子供だから。常識外れだと私たちが思うほどの、規格外の愛と赦しを差し出すのが、このお父さんの当たり前なのです。

この父親は、長男にはこうも言いました。
子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
父なる神様のものは全部あなたのもの。神様の永遠のいのちもあなたのもの。復活の命もあなたのもの。神様の愛も、あなたのためのもの。なんでもあなたのもの。
神様は、そのひとりごをすらお与えになりました。あなたのために。「私のものは全部あなたのものだ。」・・・読めば読むほど、このお話において、私たちがしっかり見つめ、感謝すべきはこのお父さんであると思えてまいります。

次男坊は、悔い改めました。父のもとへ帰郷しました。「これからはまじめにやります」なんてことはしかし、この話では興味が示されません。大事なのは、まだ遠く離れているのに、迎えに行った父親の姿です。「おかえり!」と。
次男坊は、戸惑ったのはではないでしょうか。そして用意された大宴会の食事、本当に食べていいのか、迷ったのではないでしょうか。

でも、これが天のお父様、神様の当たり前なのです。
「こんなわたしではだめだろう」って人は思います。現代の日本人は特にそう思っている人、多いでしょう。そういう中で響き渡ります。「いいから、こっちへおいで」って。「私はあなたを、そのままのあなたを迎えるよ」って言われる天のお父様。

この愛を知るように、と主の御声が今日も響いています。
私たちの常識、私たちの考えをはるかに越えた大いなる御心、その愛によって、私たちは迎えられます。救われます。

父親は出てきました。次男坊を迎えるために、長男坊を迎えるために。
そのたとえにあるように、イエスさまが出て来られました。私たちを救うために。天から出て来られました。私たちをお迎えするためです。
このお方の愛のみ腕の中に帰りましょう。その時、天の父の「おかえり」という声が聞こえます。私たちはみな、この大いなるお方の子供です。
このお方の愛を忘れずに過ごしましょう。 (角本浩)