8月2日(日) 聖書箇所からメッセージ「残ったパン屑」

説教

マタイによる福音書 14:13~21   
13イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。 14イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。 15夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」 16イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」 17弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」 18イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、 19群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。 20すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。 21食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

説教 

聖餐式を受けない期間が数ヶ月に及んでしまっておりますが、聖餐式の一場面として、私にとってひとつ忘れられない光景があります。私の所属する南カリフォルニア教区の礼拝が毎週水曜日に行われていたのですが、教区長が聖餐式の司式をして、教区長が裂いたパンを一人ひとりに渡すのです。

わたしも聖餐式を受けるため前に出ていくと、私の前に並んでいたスティーブ牧師という信頼する牧師なのですが、彼の番となり、パンとぶどう酒をいただこうとしたとき、Bishopの裂いたパンがさらに二つに分かれてしまい、小さなパン屑が床に落ちてしまったのです。

すかさず、スティーブ牧師はその小さいパン屑を床から拾い口にしたのです。 床といっても外の地面とほとんど同じような土足で動き回る場所に落ちたパンくずをイエス様と思いぱっと口に入れられた牧師の存在を私は忘れられないのです。 

本日の聖書箇所、イエスが5つのパンと二匹の魚だけで、男性だけで5000人、その家族も含めるといったい何万人もの人がいたのかさだかではありませんが、彼らを満腹にされた話です。 これこそイエスのなさった奇跡の中でも最高の奇跡だという牧師もいます。

しかしイエスを追ってきた人々は、それぞれに自分のポケットに食べ物をもっていたんだ。だから、それらも分け合っておなかいっぱいになれたので、奇跡でもなんでもないという牧師の方もいたりします。 

今日私がここにたってお話することは、奇跡であるかどうかということが メッセージの焦点ではありません。すべての人が満腹になったあと、20節の後半に書いてあったことにフォーカスしてお話していきたいと思うのです。 

残ったパンのくずを集めると、十二のかごいっぱいになった。と書いてあるのです。 なんでこんなことが書いてあるのでしょうか。 この話、満腹になるだけでもすごい話なのですが、パンのくずを集めると十二のかごがいっぱいになるって、いったいどういう意味があるのでしょうか? 

聖書は旧約聖書からはじまって、とても寓話的に描写されています。 寓話的というと、言葉を変えれば、比喩表現をたくさんつかっており、なにかにたとえていることがとても多いのです。  

日本語の聖書では、パンの屑とはっきり書いてしまっていますが、パンの屑とされているものが、もっとなにかほかのものを指しているのではないかと思うのです。 ちなみに、英語の聖書では、たんに leftover とか Leftover Fragments などと書いてあり、それをパンのくずだとははっきり書いてません。 

イエスがのちのち、最後の晩餐で、イエスはパンを5000人の給食とのときと同じように、感謝して祈り、それを裂いて弟子たちにおあたえになるとき、パンが「私の体である。」と言われているのです。 パンはイエスの命が存在しているそのようなたとえもされていたといえるのです。 

だったら、5000人の給食の際に残されたパン屑も、やはり大切な大切な創造主が造られた命をあらわしているということではないかと教えられているように思うのです。 慈愛園創設当時から関わっておられたパウラス宣教師の大好きな聖書箇所として、やはりイエスの5000人への給食をヨハネ福音書が記述している6章12節「「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」とイエスが弟子たちに命令した箇所が書かれています。その箇所をパウラス宣教師は大好きだったと思われます。

ちなみに、ここの部分、原語のギリシャ語を読んでも英語を読んでも、それらを直訳するなら、パンくずという言葉はなく、「少しも無駄にならないように、散らされたものを集めなさい。」と書いてあるのです。 そしてパウラス宣教師は晩年この箇所から引用して ”Gathering Up the Fragments”日本語に訳すなら「散らされたものを集める」というタイトルの慈愛園の設立からの歴史を書くことになったのです。 

そして、その散されたものとは、売春組織に売られそうになっていた少女たちだったり、親が面倒見切れない子供や、親をなくした子供たちだったり、あるいは身寄りがなくなった未亡人や老人だったのです。 

たしかにイエスが5000人の給食のときには、散らされたものは、日本語の聖書に訳されたようにパン屑のことを言っていたかもしれません。 でも、原語にはパンという言葉はなく、散らされたもの という言葉で聖書が書かれていたことには、大きな意味があったのだと思います。

それは、のこされた屑のようなパンであっても、それはイエスが私はパンであると言われるほどでしたから、そのパン屑ひとつひとつに、大きな意味のある、命をあらわしていたように思うのです。 

この話、今年COVID19の中を生きるわたしたちに命の大切さを今日教えてくれているのだと思っています。3-5月ごろにはかなり有名な方々もそうでない方々も亡くなられたりしていました。 ここ数ヶ月の間に、とくに3-5月はいろいろなところでステイホームが行われました。

私は1980年の初夏にワシントン州のセントヘレナ火山で爆発が起こり、灰が近隣の町にしばらく振り続けていたため人々がStay Homeせざるを得なかった時のことを思い出していました。 翌年春に何が起こったかご存知でしょうか? その町ではベビーブームが起こっていたという話を聞きました。 だから、今年の春に世界中でステイホームした国々において、ベビーブームが起こるのではないかと思っていたのです。

先月7月終わりに日本のニュースを見ていて、やはりと思う兆候を知りました。 期待していなかった妊娠をしてしまったという相談件数が、日本では6月を終わった時点すでに去年1年分の相談件数を上回ったそうです。 

問題は、有名であろうが有名でなかろうが、命の大切さは、この世の命を終える亡くなるかたがただけではありません。新しくこの世に生まれる命も大切です。

今、わたしたちは、イエスが弟子たちにさせた、少しも無駄にならないように、残されたものを集めるようにという話を聞いています。 この世に与えてくださった一人ひとりの命、すこしも無駄にならないように、祈ります。

天の神様、今日の御言葉を感謝します。Covid19にかかった人々のこと、あなたがその命をお守りください。そして、いま新たな命を宿しているかたがたのことも覚えます。そこにあなたが寄り添ってください。そして、あなたに導かれている社会が、ひとりひとりの命を誹謗中傷するのではなく、たがいに気遣い、愛し合うように導いてください。 熊本では赤ちゃんポストが設置されている慈恵病院があり、また慈愛園のような乳児ホームがあります。 それらの活動を、あなたの思いにかなって祝福してください。 またみ心ならば、養子を考えている人々、あるいはこれから考えようとする人々に、あなたの豊かな導きがありますように。

また今年も8月を迎えました。75年前前半に起こっていた、日本の各都市、沖縄での戦闘、そして8月に入ってからの原爆、そして無条件降伏、その過程において多くの方々のこの世の命が散らされたことを覚えます。 みこころならば、天において、それらの命を慈しみ、だきしめてください。 わたしたちも、願わくばそこに、あなたの決められたときに、招いてください。 天においてあなたの平和が、あるように、この世においても、あなたの平和を実現してください。 主のみなによって祈ります。 アーメン。