1月12日(日)の説教「洗礼を受ける」

説教

福音書箇所 マタイ 3章13~17節 13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

主イエスの恵みと平安が会衆の上に豊かに注がれますように。アーメン

本日は主の洗礼日と呼ばれる主日です。昨年12月1日にはじまった待降節は、12月25日の未明を境に、降誕節と呼ばれる期節に入っておりました。 そして、本日を境に、イエスがこの世に誕生したという降誕節から、顕現後の期節と言われる、神の御子イエスが伝道・宣教の業を実践される期節に入っていくわけです。 

大きな期節の境が、イエスの降誕であり、イエスの洗礼です。降誕の模様、聖劇などで演じられている様子は、聖書のどこに書いてあるかはご存知でしょうか? ルカ福音書に主に描写されており、それがどちらかというとマリアの立場にフォーカスしております。またマタイ福音書にも描写されていますがヨセフ側から書かれており、また東方の国の博士たちが降誕後のイエスにプレゼントを持って会いにくる様子もマタイ福音書に描かれています。わたしたちが知るイエス降誕の様子は、この二つの福音書にしか出ていません。

しかし、イエスの洗礼は、マタイ、ルカにはもちろん、マルコにも描写されておりますし、ヨハネもイエスの洗礼について1章後半で触れています。 つまり、四つの福音書すべてで、イエスの洗礼が描かれていることからも、主の洗礼は、クリスマス、イースター、ペンテコステなどのお祝いにはなっていないものの、意味が深いものがあるのだと思います。

意味が深いというのは、神学的とか歴史的という面もありますが、もっともっと、私たちの信仰生活に、大きな影響を与えている出来事だったのだと思うのです。 いや、私たちの信仰ということを意識しているしていないにかかわらず、日ごろの生き方そのものにも、影響を与えてきている出来事だと思うのす。 

さて、その主の洗礼について、今年はマタイ福音書に記述されている描写から、学んでまいりたいと思います。 洗礼者ヨハネは、本日の福音書箇所の前のページにありますが、3章2節「悔い改めよ、神の国は近づいた」といって、ヨルダン川でユダヤ全土から集まる人々に洗礼を授けていました。 それは、悔い改めの洗礼です。 

そして、その悔い改めの洗礼を、主イエスもやって来てヨハネから受けられるのです。 ここで、私たちも、当時の洗礼者ヨハネも疑問をいだきます。 イエス、神のみ子、罪のないお方みずからが、なぜ悔い改めの洗礼を受けなければならないのか。そこで、洗礼者ヨハネが問うわけです。 

本日の福音書箇所14節に、洗礼者ヨハネの質問が書かれています。「わたしこそ、あなたから洗礼(バップテスマ)を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られたのですか。」 洗礼者ヨハネは当惑しているわけです。

ここで、わたしたちは、すぐに15節に書かれているイエスの答えに目を移さずに、洗礼者ヨハネが授けていた「悔い改め」の洗礼の大切さを心にとめておきたいと思うのです。 というのは「悔い改めよ。天の国は近づいた。」という洗礼者ヨハネが大々的に述べていた言葉は、そのまま、イエスが宣教を開始する時の言葉なのです。本日の福音書箇所の次のページになりますが、マタイ4章17節、イエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と言って、のべ伝え始められたのす。

私たち、ついつい神様の御心を忘れ、自分が一番、自分は正しいと言い張るような行動に出てしまうわけです。 連日報道されているトランプ氏やゴーン氏の発言や行動を見てみなさんはなにを思われているでしょうか。それは、彼らだけではとどまりません、私たちの普段、毎週毎週の行動、言動を振り返っても、ニュースにはならなくても、みな悔い改めが必要なのです。 だから礼拝の最初の罪の告白の大切さがあります。

悔い改めの大切さを述べたところで、なぜイエスが洗礼を受けに来られたか?という質問に対するイエスの答えに注目してみたいと思うのです。 イエスは15節で「いまは止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と言われています。ここで正しいということは、「悔い改める」ことは、正しいことで、それを、ヨハネの洗礼をイエスも受けること、我々の人間の罪を背負って、人々が受けている洗礼をイエスも受けることに、大きな意味があるわけです。 ピンと来られた方もいるかと思いますが、人々がすることをイエスがする。 人々が本来なら十字架にかかられければならなかったことを、イエスが十字架にかかることとも、このイエスの洗礼からつながっていたことです。

そしてイエスが洗礼を受け、水から上がったとき、重大なことが起こります。マタイによれば、まず「天がイエスに向かって開いた」とあります。 これは天の国が、この地上におられるイエスとつながってること、天と地がぐっと近づいていることを象徴しているのでしょう。 イエス降誕の際に、天の天使たちが大勢あらわれて、この地のもっとも貧しい羊飼いたちに、「天には栄光、地には平和」と大合唱した、あの天と地がぐっと近づいた場面にも、似ている様子が、イエスの洗礼後に現われているわけです。

そして、さらに「神の霊がはとのようにご自分の上に降ってくるのをごらんになった。」との描写があります。 これも、まさに聖霊降臨のできごとにつながっているのです。 イエスは十字架にかけられても、神はみ子を復活され、みなの前に現れ、その50日後のペンテコステの出来事を、ここで先取りしているような出来事です。 ただ、マタイの表現だと、この様子を「ごらんになった」と書かれているので、その様子を明確に見ることができたのは、イエスだけで、ほかの人々にもみえたのかよくわからない面があったのかもしれません。 

さらに、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえたのであります。 この声が述べ伝えていることは、聖霊が降ってきて、神がどれだけ、人となっているみ子を愛しておられるかを示すものであり、ひいては神が、すべての人を、どれだけ愛しておらるかということにも繫がって来るのです。

これはイエスの洗礼の様子でありますが、このこと、私たちが洗礼を受けるときも、同じことが起こっているのです。 洗礼を受けた本人が、それを目撃できるか、意識できるかには関係なく、主なるイエスからは、大いなる聖霊の力が、洗礼を受けているものに及ぶのです。深い神の愛により神と人を近づけるのです。さらに、聖霊の力によって、人と人をも愛の力によって近づけることが起こっていくのです。 これは自分で意識して、起こることではなく、聖霊の力が人々の間にもやどって起こることです。 
杉原地畝さん、ご存知の方も多いと思います。第二次世界大戦中の職業は外交官でした。日本とドイツが同盟を結んでいる第二次世界大戦中、ドイツに迫害されてきたユダヤ難民の方々、このままでは強制収容所に送り込まれ、死にいたらしめられてしまう人々を、他国に逃亡できるビザを発行する行動に出たのです。それは、日本とドイツの外交上このましいことではなく、自分の外交官の立場が追われてもしょうがないことでした。

テレビなどでは、杉原地畝さんが洗礼を受けた方であったことは報道されたりしたのは見たことありません。でも、神田のニコライ堂、ハリストス正教会で洗礼を受けた方です。そして、彼の中に、不思議な聖霊の力が働いていたとしか思えないのです。 

彼は戦後は、外交官の仕事は失います。立場がどうなるかには関係なく、彼は正しいことをする行動をとれたのです。戦後何十年も経ってイスラエルから表彰されたりしますが、彼はただあたりまえのことをしただけと述べるだけでした。見返りを求めたりした行為ではなかったのです。 杉原地畝さんは、天に召されるとき、自分のアイデンティでもある洗礼受けたクリスチャンであることを覚え、ニコライ堂の神父に会いたいといって、亡くなったという話を聞きました。 

洗礼を受けること、それが即教会生活を毎週送ることになるかどうか、それはよくわかりません。 でも洗礼には、聖霊の力が必ず働いています。その働きが、どういうかたちでどうわたしたち人間に見えるのか、あるいは見えないのか、わかりません。 

イエスが洗礼を受けました、そして起こったことと同じことが、われわれの眼には見える見えないにかかわらず、聖霊の働きは、すべての受洗者に及んでいます。 一人でも多くの方々が主イエスの受けた洗礼の時と同じ聖霊の力が働き、神から「愛する子」と宣言していただける洗礼を受けることができまますよう祈ります。 アーメン