5月10日の説教から 「その道の途上で」

2020年7月27日説教

説教 「その道の途上で」   牧師 安達均 

福音書箇所 ヨハネ14:1-14

 永遠の命の道である主イエスが、この各家庭礼拝において、この上のない恵みと平安をお与えください! アーメン

 人間この世に生まれた瞬間から、この世に生きられる時間は一刻一刻短くなっています。私たちの人生、好むか好まざるにかかわらず、いろいろな道を歩みます。そして、この世の死が必ず訪れます。その後、ではどうなるのでしょう?

 この世に別れを告げた後、かならず天国に行くために、どういう道を歩んだらよいのか、そんなことを考えられたことがあるでしょうか? 道順がわからない時、20年位前から目的地の名前か住所さえわかれば、ナビによって道順がわかるようになってきました。私は「天国」といれたら、どういう道順が案内されるかやってみたことがあります。

 アメリカのカリフォルニアからやってみたわけですが、なんと、熊本県にある、天国への道順がちゃんと出てきました。そして、天国はなにかよく調べたら、天国という名前の馬刺しレストランでした。

 不思議です、そのとき、わたしは熊本に宣教師としてやってくるなんて、これっぽっちも思っていませんでした。もちろん、私が目的としたのは料理店の天国ではなかったのですが、天国に私が行く途上で、今、熊本に住んでいるのは事実です。

 今日与えられている福音書、天国に行くことと多いに関係しています。お葬式の時に本当によく読まれます。でもお葬式以外でも、普段から何度読んでもよい箇所だと思っています。 

 14章の一節からですが、現代のように人類が大いに動揺している時代と関係している状況がありますので、13章の終わりに何が書いてあったのか、その状況を説明した方が良いと思います。13章の最後の段落には、「わたしの行くところにあなたは今ついて来ることはできない」というイエスの言葉がありました。

 それを聞き、とくに一番弟子とも思われるペトロは大きく動揺してしまったのでした。その弟子たちに「心を騒がせるな。」といって語りだしているのが、今日の聖書箇所のはじまりなのです。 そして、イエスは「私の父の家には住むところがたくさんある。」と語り、「わたしがどこに行くのか、あなたがたはその道を知っている。」と続いて話します。しかし、弟子の一人のトマスは、「イエスが何というところに行くのか、目的地もアドレスも知りませんから、どうやってその道を知るのでしょうか」と質問するのです。 

 ここでも、イエスからすばらしい言葉を引き出してくれた、トマスに感謝したいと思います。 イエスは、「私は道である。」と話してくださるのです。それは、トマスがどうやって、イエスの行く所への道を知ることができるでしょうかと質問したことに対して、トマスの勘違い、さらに私自身の勘違いでもあるのですが、それに気付くように言われているように思うのです。

 イエスは、どこどこに道があるから、その道を通っていけば、私の行く父のところ、つまり天国に行けるという話ではないですよ。むしろ、イエス自身が、私たちの歩む道だと話してくださっているのです。

 いろいろな宗教の立場のことを思って、互いに尊敬しあう上で、天国におられる神のところに、どんな宗教を信じていても、だいじょうぶ、同じ天国の神に会えます。などとよく話されることがあります。つまり、神にいたる道はいろいろあっても、行く先は同じであると。どう思われますか?そこに真理はあるのでしょうか?

 イエスは、私は道でありと言ったあとは、イエスは私は真理であるとも言われます。ご自分が道であり真理であると言われたイエスは、さらに、「命である。」とも言われます。それはこの世の命ではなく、永遠の命であります。

 この聖書箇所は現代のような状況にある私たちに何を語りかけているのでしょうか? イエスキリストが教えてくださっていることは、父なる神が天国にずっといて、待っていてくださるような受身の神ということではないということではないでしょうか。

 先週のメッセージは羊飼いと羊の喩えでした。羊飼いと羊がいっしょにいてくださっているように、主なる神ご自身がイエスという人となって、私たちの中に来てくださったのです。しかもその羊飼いは羊にまでなってしまい、ほかの羊を永遠の命を与えるために、自らは屠られてしまったのです。

 そのイエスが屠られる、つまり十字架に架かる前日の晩に、イエスが長い遺言のような説教を残しております。 その説教の一部が今日の聖書箇所であり、その全体がヨハネ福音書の中で13章から17章に残されています。その要点の大切さは、イエスが人間の間では、見える存在ではなくなってしまうのですが、何かが代々にわたって残る約束をされたといえます。

 その約束は、遠い将来に起こる約束というより、その時イエスが弟子たちに話して復活して50日目、ペンテコステに実現した約束であります。そして、21世紀に生きている私たちにも、その約束が実現しつづけいます。

 私たちは、イエスを今や人間の姿として見なくても、道であり、真理であり、命であるイエス、聖霊が、確かに私たちともに歩んでくださっています。 信仰という旅路において、とくに昨今のようなパンデミックが世界で起こっている中、私たちは何か間違った道を歩んでしまってきたという思いもあるでしょう。それでも道であるイエスがともに歩んでくださっています。  

 説教の最後に、マーガレットパワーズという方の有名な詩を読んで終わりたいと思います。

「ある夜、わたしは夢を見た。/わたしは、主と共に、なぎさを歩いていた。/暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。/どの光景にも、砂の上に二人分の足跡が残されていた。/一つは私の足跡、もう一つは主の足跡であった。

 これまでの人生の最後の光景が映し出された時、/わたしは、砂の上の足跡に目を留めた。/そこには一つの足跡しかなかった。/わたしが人生で一番つらく、悲しい時だった。

 このことがいつもわたしの心を乱していたので、/私はその悩みについて主にお尋ねした。/『主よ。わたしがあなたに従うと決心した時、/あなたは、全ての道で、わたしと共に歩み、/わたしと語り合って下さると約束されました。/それなのに、わたしの人生の一番つらい時、/一人分の足跡しかなかったのは何故ですか。/一番あなたを必要としていた時に、/あなたが、何故、わたしを捨てられたのか、/わたしには分かりません。』

  主はささやかれた。/『わたしの大切な子よ。/わたしは、あなたを愛している。/あなたを決して捨てたりはしない。/ましてや、苦しみや試みの時に、/足跡が一つだったのは、/わたしがあなたを背負っていたからだ。』」 

 この熊本でもそして多くの国々で、ビジネスを再開しはじめつつあります。パンデミックが収束するのか、あるいはもっと悪くなってしまうのか、わかりません。どちらになったとしても、主がともにいつも歩んでくださっています。

 心を騒がせてはなりません。 だいじょうぶです。私たちは主の道の途上にいます。アーメン