5月17日の説教から 「あたなたを見捨てない」
説教 「あなたを見捨てない」 牧師 安達均
福 音 書 ヨハネ 14:15~21
先月始まった朝の連続ドラマ小説、エール、をごらんになっておられるでしょうか?わたしは、時々見ているだけなのですが、新型コロナで亡くなられた志村けんさんが登場したりして心を動かされます。また志村さんの場面ではなかったのですが、5月8日に放送されたひとコマが、私の目にやきつきました。
それは主人公、古山祐一(作曲家:古関裕而がモデル)が母、弟、そして親戚中からの長男としての期待を裏切り、福島の実家から東京に旅立とうとする直前に、父、三郎と二人だけで福島弁で会話する場面でした。 祐一は父に「おれ、家族、捨ててきた。」と心のわだかまり、悔やむ気持ちも伴いながら話します。祐一にとって、音楽の道も、東京にいる彼女(音という女性)との結婚も、福島に残ること以上に大切なことだったのです。
息子の「家族を捨ててきた」との言葉に対して、父親は、「おめえが見捨てても俺は見捨てねー」と語り、父親として息子、祐而を応援している、愛に満ちた言葉でした。息子がどんなに家族・親戚への裏切り行為をしようが、それを受けとめ息子を愛しつづけていることを現した場面でした。
聖書でもっとも美しい話とも言われる、「放蕩息子と父親」の話にも通じるような場面で、わたしは感動してしまいました。また、祐而の妻となる音の家族がバリバリのクリスチャン家庭として描かれていたのですが、祐而の父のなかにも深い聖書的な描写を私は感じました。
さて、今日の聖書箇所、先週に引き続き、イエスキリストが十字架に架かる前の木曜夜に語られた長いイエスの説教の一部です。イエスは、この説教の後には、弟子の一人ユダから裏切られ、ローマの兵士たちに売り渡され、金曜日にはユダヤ教の指導者とローマの権力者たちにより、十字架刑に処せられることはわかっておられたのでしょう。
また、十字架刑に処せられるのを目前にして、ユダだけではなく、ペトロはイエスのことを3度も「知らない」と言って見放してしまうこともわかっていました。さらに弟子たちが、十字架刑にかかる自分を防ぐ行動に出られないどころか、逃げ出してしまうこともよくわかっておられたのだと思います。
しかし、自分が十字架刑に架かり葬られた後、弟子たちがどんなに心細くなってしまうか、また、どれほど悔やむ気持ちになるかもよくわかっておられたのでしょう。 弟子たちは、10代後半から20代だったと思います。そのころのユダヤの慣習によれば、もう成人した大人たちでありますが、それでも、親のいないみなしごのような気持ち、そして不安だらけになってしまうことを、イエスは察知していたことでしょう。
まだ自分たちが数日後にどれほど不安な気持ちになるのかまではよくわかっていない弟子たちでしたが、数日後には心細くて心配でしょうがなくなってしまう弟子たちに、イエスは前もって語っていたわけです。 父にお願いして、弁護者を使わすと。 その方は真理の霊、つまり聖霊が送られると。 自分はあなた方から見放される身であるにもかかわらず、「私はあなた方をみなしごにはしておかない。」と語られていたのです。それは、聖霊が送られることによって、見放してしまうような状況にはしない約束でした。
次にイエスは、「これからは世はイエスを見ることができないが、信じる者たちはイエスを見ることができる。」と語っておられます。これはイエスの存在を私たちはいつも信仰というレンズを通して確信することです。そしてその根拠となるような言葉を語っておられます。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」この言葉が意味深いのは、「わたしが生きている」つまり、現在形で表記され、その上で「あなたがたも生きることになる」と未来形で表記されています。私たちの将来の根拠が、イエスが生きておられる現実にあるのです。
上記に「信仰のレンズ」という言葉を使いましたが、私たちは信仰生活で勘違いに気づかされることがあります。日本語で信仰という言葉が使われているとき、よく自分が主語で、その対象が神であると考えられてしまっている場合が多いことに気づかされます。そして私たちの心が変化して、信仰が無くなってしまったとか、全治全能なる神の存在を見失い忘れ行動してしまい、結局怖さや不安な気持ちでいっぱいになってしまうことがあります。
しかし、大切なことは、わたしたちがどれだけ信仰を無くし、信仰というレンズもどこかに投げ出してしまい、イエスの存在を確認できなくなったと思っても、また全治全能の神を忘れていようが、主なるイエス、父なる神は、わたしたちのそのような怖さや不安の中におられます。主なるイエスこそ、ご自分の不思議な信仰のレンズを通し、わたしたちを見てくださっており、心の状態もわかっておられます。
この数ヶ月の世界は大きく変わりました。 怖さ、不安の中におかれている世界人類の状況があります。 日々新たに確認される感染者数は減ってきているという情報から世界的にも日本でも、ビジネスは動き出しつつありますが、しかし、またいつ感染が拡大してしまうのか、おっかなびっくりのなかで人々は動きはじめています。
そのようなおっかなびっくりの状況にあるわたしたちのことを、よーく父なる神がわかってくださっています。 そして、「あなたがたをみなしごにはしておかない。」と語ってくださっています。 神さまなんてほど遠いと思っている、不信仰の中にある者も含めて、しっかり主なるお方が見守り、語ってくださっています。
なぜそんなことがありえるのでしょうか?それは死にて墓に葬られても、父なる神は、イエスをよみがえらせ、復活させ、永遠の命に生きておらることを示してくださいました。裏切り者にも、見捨てる者にも、墓にある者にも、いのちを賜ることができるのです。
あの復活のイエスが根拠となり、父なる神が聖霊を送ってくださっている中で、世界の民すべてが生きており、いのちが与えられているのです。 この世に生きているという現在の限られた生命だけではありません。復活のイエスが生きているという根拠のもとにある、わたしたちの将来にわたり預かっている永遠のいのちの中を歩んでいるのです。
今回の新型コロナは、わたしたの日常を変えてしまっていますし、将来もいままでの日常ではなく、新しい日常になると言われています。 でもだいじょうぶです。 「あなたをみすてない」とおっしゃる復活されたイエス、聖霊とともに歩んでまいりましょう。 アーメン