5月24日の説教から 「危ないゲーム」
説教 「危ないゲーム」 牧師 安達均
聖書 使徒言行録 1: 1~11
主イエスからの恵みと平安が、この説教をどのような状況に置かれていて、どこで読まれていたとしても、お一人お一人の心の中に豊かに注がれますように。 アーメン。
「今がこの時だろうか?」と自問自答するものの、まさにそうだと思い込んで、結果はそうではなく、失敗した体験はありますか? わたしは、学生時代、70年代後半でしたが、私の通った大学周辺には、まだまだたくさんの麻雀屋さんがあった時代で、クラスメートと頭の体操だなどと言いつつ、貧乏学生で賭けはしませんがゲームを楽しんでいたことがあります。そして、よくゲームに負けました。自分のことばかり考えてしまい、まさに自分が勝てると思った時に、だれかの思うつぼとなるパイを捨ててしまい、負けてしまう経験をよく味わいました。
また、まさにこの説教原稿を準備している時ですが、麻雀にかかわるニュースが飛び込んできました。検察庁の黒川弘務検事長は、非常事態宣言は出ているし、東京ではステイホーム要請が出ている今月はじめに、産経新聞の記者たちと朝日新聞の元記者と、賭け麻雀をしていたと週刊誌に載ったそうです。 もちろん検事長が違法である賭け麻雀などをしてはならなかったわけです。 それにしても、今という時に二度も、よし行けると思って、黒川検事長も記者たちも、5月1日にも13日にも賭け麻雀に出かけていったようです。 でも、まったく出かけて行くべき時ではありませんでした。
今週の使徒言行録の聖書箇所から、私たちは馬鹿なことをしたという思いを昔から引き継いでいることに気づかされます。突然イエスが昇天していったのを見上げていた弟子たちの中に、すくなくとも自分も居たように思っているのです。復活節の最後の日曜日ですが、初代のイエスの使徒たちが、現代を生きる私たちとある意味似ている、おっちょこちょいな言動や行動をとっていたのです。神の国の実現は、まさにこの時と弟子たちは考えて、イエスに質問をしたのです。
イエスが天に昇って行かれる時、初代の弟子たちはいったい何がおこっているのかわかっていませんでした。主イエスは3年間もの間、教え続けて、あれだけ入念に聖礼典、最後の晩餐でも教え、さらにイエスは墓に葬られても復活して弟子たちの間にさらに40日間現れ、彼等の将来の伝道のための準備をさせたのです。
それにしても彼等がイエスに質問したのは、神が人類の歴史に介入している出来事に関わる試験に自分たちが合格するがための、確認の質問だったように思うのです。そして、主なるイエスは、短い会話の後は、彼らの近くからすぐに消えてしまうことについては、考えもしていなかったでしょう。 そして、イエスが天に昇っていく様子をただ、ぽかんと眺めていたのです。
イエスが墓から復活してくださって40日が過ぎ、まさにその時であるという、彼等の理解が正しいということを確かめようとすることしか考えていなかったのです。それはすなわち、彼ら自身も十字架にかけられるのではないかという恐怖から完全に開放される、自分たちだけがよくなれば良いということに興味は集中していたのです。言い換えるならば彼等が望んでいたのは、ただ歴史の流れの中で自分たちだけが勝ち組に入っているという確証を得ようとしていたに過ぎなかったのです。
そのような弟子たちの自分よがりの思いをよく見抜いておられたイエスでした。 そして、「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時でしょうか?」と確認をせまってくる弟子たちに、実に力ある言葉で、そしてあれから2000年近く経った時代に生きている私たちにも、本当に力ある言葉で答えられたのです。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」とイエスは言われるのです。
自分たちの思い願っていた通りに、イスラエルがローマ帝国から解放される。そして、主なる神、イエスが、このイスラエルの王となってくださる。そのような時が、復活の主によって実現するのが、この時だなんて、自分たちで勝手に思わないように、ともうすぐ天に昇られるイエスは言われるのです。
さらに力あるイエスの言葉は続きました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」これは、次週の聖書箇所の内容にふみこんでしまうことになるので、そのさわりだけ話すなら、イエスがいなくなっても、代弁者なる聖霊が下ってくるから、だいじょうぶですよ、とイエスが教えていてくださったのです。
さて、今日の使徒言行録からとても大切なことを考えさせられていると思うのです。神の時はこの時だと前もってわかろうとすることは将来を保証するものでもなければ、私たちの生きる基盤にすべきことではありません。あなたがすでにわかっている信仰こそがすべてをわからせてくださるのです。
神秘的な将来を見極めようとすることが信仰ではありません。永遠の命とは、決して時とか時間によって成り立っているのではなく、神を畏れ、礼拝し、愛する中での永遠の命です。それは神がわたしたちをこの上なく愛してくださっているからです。 主イエスの到来のおかげで、だれにとってももはや永遠の命が不可解な事ではなくなったのです。 イエスの信仰とは、神との関係がどのようなものか、どんな感覚を抱くか、どんな味がするのか、どんな音がするのか、そのようなものです。
初代のキリスト教徒たちは、彼等の生きている時代に、イエスが御国を弟子たちの眼前に示されることを望み夢みたのでした。それでも、たとえどんなに彼らが自分よがりの考えをしていたにもかかわらず、神に愛されており、聖霊につつまれるのです。同じように現代の私たちも、どんな自分よがりの生活様式に生きていたとしても、救い主に愛されその御腕のなかでともに歩むことが信仰であります。それは、私たちがそのままの状態で神に属していると感じることであります。
そして、今日、予測もつかないような世界で、時を見極めようとするような自己満足でしかない危ないゲームをしないようにイエスは警告しているのです。長い歴史の中でいったいどのようなタイミングに自分たちが生きているのか自分たちだけのために見極めようとすることは、しないようにしたいのです。どのような時代のどのような時期に生きているのかを知ることは私たちの仕事ではありません。それどころか、聖書の話からすれば、あなたが探し求めている神の御国はもうすでにあなた方の中にきているのです。 あるいは後ろにに来ていると申し上げても良いと思っています。
松橋教会の皆様にはすでにお話したこともあったかと思いますが、わたしは、以前ヘブライ語の専門家にこんな話を聞いたことがあります。 ヘブライ語を話していた古代ヘブライ人には、「未来は後ろで、過去が前だ」というコンセプトがあったというのです。 それは未来のことは人間は見えていないから、後ろなのだと。そして過去は見えたことだから、前なのだと。 21世紀の現代を生きる私たちには、未来は前で過去は後ろというコンセプトの中に生きていますが、この「未来は後ろで過去は前」という概念について、思いを巡らすこと、そしてわかっている過去を振り返る大切さがあるように思うのです。
Covid-19のパンでミックがまだ治まっていない中、将来を見ることができてもいませんし、神の存在を見ることができるわけでもありません。 しかし、どんな状況におかれていようが、父なる神と、その子イエスキリスト、そして聖霊はいつも私たちとともに居てくださいます。 アーメン。