5月31日の説教から 「生きた水」

説教

ヨハネによる福音書7章37-39節

牧師 角本 浩 

 本日与えられましたヨハネ福音書7章のみ言葉、その出だしに、祭りと書かれています。

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。

舞台は、祭りの時でした。
何の祭りだったか。
これは、ユダヤの人々がもっとも大事にしている祭りのひとつで、仮庵(かりいお)の祭りというものでした。仮庵。仮の庵(いおり)。

庵というのはずいぶん古めかしい言い方で、今のわたしたちに分かりやすく言いますと、仮小屋の祭りと言っても良いでしょう。
と言いますのは、この祭りの行われる一週間、人々は、自分の住む家を出て、小屋のようなところで過ごします。
それで、仮庵の祭り、仮小屋の祭りです。

いったい、なぜそんなことをするのか、何を記念する祭りかと言いますと、出エジプトを記念する祭りです。

ご存知のように、その昔、ユダヤの人々は、エジプトで奴隷生活を送りました。
モーセのもと、エジプトを脱出し、約束の地へ向かいます。
その期間、実に四十年間・・・。
わたしたちは、たとえば、多少引っ越しなどをしたとしても、それでも、一つの土地で暮らします。家があります。
でも、あの時、ユダヤの人々は、流浪の旅を四十年間続けました。

先祖が歩んだその旅路を思い起す。
困難極まる旅路であっても、神さまは、いつも共におられて、守ってくださった。
天からのパンであるマナを与えてくださった。
岩からほとばしる水を与えてくださった。
さまざまな困難の道を、守ってくださった・・・その旅路を歩んだ日々を思い起こすために、彼らは、家を出て、一週間の間、仮庵で暮らす。そういう祭りです。

また、その七日間、祭司は朝毎に泉の水を汲み、祭壇に降り注ぐ。
民は皆、讃美を歌ったり、詩編を歌ったりしながら、喜び、祝い、祈る。
そして、最終日には、水を汲んだ祭司は、祭壇の周りを七周回る。
会衆も皆、歌いながら、一緒に歩く。
そして、その水を祭壇に降り注ぐとき、その祭りは、最高潮に達したと言われます。

同じ「祭り」と言っても、わたしたち日本人が思い描く祭りは、どうも様子が違うような気もします。少なくとも、多くの庶民は、日本では、出店とか、花火とか、踊るとか。そういったことが、祭りのイメージとなっている気がします。

そこへ行くと、彼らの祭りは、信仰と結びつく。
神さまのみわざを忘れないように、というのが最大の目的。
家を出て、仮小屋で暮らすような、不自由を味わってでも、信仰をおぼえ、また子供たちに伝えていく。そういう意義が込められていたようです。

その意味では、わたしたち教会に集うクリスチャンも、クリスマス、イースター、ペンテコステ、さらに宗教改革、全聖徒主日など、その時、その時に、神さまのみわざをおぼえ祈る。信仰を継承する、その伝統を引き継いでいると言えましょう。

さて、しかし、文化的な違いはあっても、共通することは、祭りというのは、非日常であるということかもしれません。
どのような内容であれ、祭りを過ごす時というのは、日常とは違います。
どこに住んでいても、等しく、人々は、祭りを楽しみにします。その時間は、日常を離れ、いささか開放的な気分を味わいます。

今日のみことばのテーマのひとつは、「渇き」です。
祭りというのは、渇きを潤すところがあると思います。いや、そもそも、人は、日常の疲れを潤す癒しを求めている。だから、祭りを楽しむのかもしれません。

そのような祭りの最高潮になる時、それが、ヨハネ福音書7章にあるところです。
ご説明した通り、その日、祭壇の回りを七周も回り、うやうやしく、祭壇に水を注ぐ。民は、大歓声を上げる。
私自身、その祭りをこの目で見たことがありませんから、今、こうして説明していることも、何か事務的で、面白みや盛り上がりがないように思えることでしょう。

でも、その祭りを肌で感じた人ならば、もっと生き生きとその説明ができるはずです。
ある文書によりますと、その祭りを知る人は、この祭りを知らずして、喜びというものを知ることはできまい、と語っている。つまり、そこに参加した人びとは、最高潮に喜びに満たされる。それが、祭りの最後の時です。

その時に、イエスが立ち上がりました。そして、大声で、言われました。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

祭りの最高潮で、大歓声が上がっている時ですから、ひょっとしたらほとんどの人のみ見に入らなかったかもしれない。

でも、そうであっても、イエスは、祭壇に降り注がれる水を、またその様を見ながら大歓声を上げて、喜びに満たされる群衆をご覧になって、立ち上がって、叫ばずにいられなかったようです。

「そんなもので渇きはいやされないのだ」と。
「渇いている者は、私のもとに来なさい」と。

遠慮せず表現するならば、イエスがなさったことは、喧嘩を売った、という感じに思えます。みんなが祭りの最高潮を楽しみ、盛り上がっているのに、その熱気をさましてしまうような、言動です。
「渇いているのなら、私のもとに来なさい。一週間も、祭りをしなくても、あなたの渇きはいやされる」と。

そもそも「渇き」って何でしょうか。

体の渇き。これはいちばん分かりやすいでしょう。6月、7月とこれからの季節を思うと、特によく分かります。
暑い時、汗をかく時、渇きを覚えます。麦茶とか、冷水とか、ありがたいです。
また、体は正直ですから、水分がじゅうぶん摂取されていないと、熱中症などにもかかります。わたしたちは渇きを知っています。

さて、体以外の渇きはどうでしょうか。
体以外の部分を、わたしたちはどう理解しているでしょうか。

私は、よく、周りの人から、宗教の話をしているときに、「精神的な部分」といった表現を聴く時に、違和感を覚えることがあります。
「心」という言葉で、終わってしまうことも、何となく物足りなさをおぼえます。

もしも、心のあり方、精神的ないやしとか、励ましとか、慰めとかいうのであれば、別に宗教でなくてもよいものと思います。それこそ、祭りのような騒ぎもひとときの癒しになるでしょう。
世の中を見渡せば、心や、精神的なものと向き合うようなもの、そこを埋めてくれるようなものは、色々あると思います。
その中のひとつとして、宗教があると言われると、なんだか違うような気がします。

あの日、祭りの最高潮で、「渇く者よ」と叫ばれたのは精神的ないやし、ということのためではなかったはずです。

パスカルという人が、実によく表現してくれました。「人間の心には、神にしか埋められない空洞がある」と。すごい表現だと思います。
人間の心には、神にしか埋められない空洞がある。

人間自身も、それになかなか気づかない。だから、宗教のことを精神的なものと呼んだりする。
そうではない。神様にしか埋められない渇きがある。

もっとストレートに言えば、人間の心には、神さまを求める渇きがある、ということでしょう。
その渇きを、パスカルの言葉で言えば、その空洞をどうやって埋められるのか。

人によりそれぞれとは思いますが、わたしはやはり、罪の赦しを知る時だと思います。
自分の罪を知り、その罪が、神さまによってゆるされている。
私という存在は、選ばれ、ゆるされ、愛されている。
そのことを知る時、そのような愛をもって、私を受け止めておられる神様を知る時、ありのままのあなたを愛しているよ、と言われる神様を知る時、その空洞は、埋められます。
わたしたちの本当の渇きは、そこで、いやされます。

あの日、「渇いている者は、私のもとに来なさい」と言われたイエスさま。
わたしたちの罪のために、十字架にかかって、命を捧げてくださったイエスさま。
今も、「さあ、私のもとに来なさい。」と言っておられます。

この水によって癒されたら、今度は、その人の内から水が出て流れ出る、とあります。
その言葉のとおり、この救いを知った者たちが集まり、教会が生まれました。
松橋教会もその一つの教会です。だから、ここには、精神的ないやし、ではない、まことの救いがあります。それは、教会にしかありません。

みなさまお一人お一人も、その救いの水をいただいきました。これからも、ここで、まことの救いの泉であるイエスさまからいのちの水をいただきます。

この救いの水であるイエス・キリストを伝えて行きましょう。
ここから、救いの水が流れて行くように。祈り続けましょう。

皆様のうえに、主の平安、恵み、豊かにありますように。