ショートメッセージ 「赦されて」

2020年9月15日説教

 イエスはこんなたとえ話をされています: 「天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 (マタイ18:23-35)

 わたしたち人を「赦せない」あるいは自分を「赦せない」パターンにはまり苦しむ体験をしてしまいます。 このイエスのたとえ話は、どうしようもない重荷を負ってしまった一人が神様に赦されていたのに、隣人を赦せなくなってしまった、さらには自分自身も赦せなくなるような状態にもあてはまるたとえ話にも思えます。鍵となっていることは、神様に赦されたこと、そこをどこかにおきざりにして生きてしまうことではないでしょうか? 

  わたしたちがとんでもないことをした、神の子イエスを十字架につけるようなことをしてまでも、神はわたしたちを見放さず、愛し続け、赦してくださっている。 その赦されていることを、くりかえし毎週認識するとき、隣人にまた自分自身にも、「赦せた」ということが起こってくるのではないでしょうか。 本日の聖書日課には詩編103編もあるのですが、その2節には「 主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」とありました。ちょっと厳しい戒めの言葉のようではありますが、週1回でも教会の十字架を見上げて黙想する時間を持つことの大切さがあると思っています。