9月20日(日) メッセージ「残り者に福」 (松橋教会でのメッセージに加筆修正したもの)

説教

マタイ による福音書 20章 1-16 節 1「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 11それで、受け取ると、主人に不平を言った。 12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

主イエスの恵みと平安が皆様の、そしてこのサイトを通して読まれる方々の、心に豊かに注がれますように!

一年前になりますが、昨年9月「心の時代」という番組で放送されていた長崎大司教区古巣肇神父が話されたミネヤンという方のお話をしたいと思います。

ミネヤンさん、2歳でお母さまは亡くなり親の都合で、親戚に預けられる。親戚も育てられず、親戚の都合で、児童養護施設にて育ちました。中学卒業後社会に出たものの、心を病み30代から病院で余生を過ごすことになられた方です。

その病院を訪問した、古巣神父に、ミネヤンが話されたそうです。
「わたしはむずかしいことわからんとです。中学しか出ていないので。でも私には夢があるとです。」
「私は人生が終わった時に、この人は神さまの子供だったんだと言ってもらいたかです。」
「なぜなら洗礼を受けたときに、神様の子供になるんですよ。と、そう聞かされました。」
「そう思って、たまたまこの前聖書を開いたら、平和のために働く人は幸い、その人は神の子と呼ばれる、そうあったんです。」
「これこれ、だから神父さん、私は平和のために働くとです。」

そう聞かされた古巣神父はミネヤンに、
「この病院で、どうやって平和のために働くの? 8月6日や9日に、この病院で戦争反対のプラカードを持って、廊下を歩くと、ミネヤン」
とちゃかしたことがあったそうです。 

そんな会話があったあと、ミネヤンは肝臓癌となりどんどん悪化しました。古巣神父は一度訪問する約束をしながら、乗り気がせず嘘の理由を言って行かなかったことがありました。翌日ミネヤンを訪問した神父は
「昨日は私の都合ですみませんでした。」というと、
もう寝たきりになっていたミネヤンは右手を上げて
「よかとです。神父さんの都合のよかときでよかとです。」
「わたしには都合はなかとです。私は都合の言える人間ではありません。」と話だし、母親の都合、親戚の都合、で養護施設で育ち、早く一人立ちさせるため中学卒業後に車の修理免許をとり、働きだしたものの、心の病の都合から30代で入院生活となったこと。
いわば回りの都合、社会の都合を優先されたミネヤンの生活、自分の都合を言う資格がない、自分に都合がない、ことをミネヤン、は話しだした訳です。

さてここまでミネヤンさんと古巣神父の話をしたところで、今日の福音書箇所の話に触れて参ります。有名なたとえ話です。いろんな解釈がされます。
多くの場合は、神の考えとこの世の考えは違うという話がされるように思います。
でも納得が行く話として、ちょっと極端な解釈かもしれませんが、最後5時まで残っていた労働者はたいへんな能力があり、一時間働いただけで最初に働いた人と同じ12時間分の仕事をすることができた。だから同じ賃金をもらえた、という読み方もあり、それならこの話もわかる、という理解もあるそうです。
しかし、そこまで具体的に12時間分の仕事をしたとまで解釈せずとも、イエスが天国は次のようにたとえられるとするこの話、本当にこの地上とは全く違う話なのでしょうか。なっとくできる話なのではないでしょうか?

今日は、このたとえばなしの中でも、広場に最後まで残され夕方5時に最後に雇われてブドウ園に行き、ほとんどブドウ園での仕事をしなかったと思われる方に集中したいと思います。 
広場とされているところはいわば労働者市場です。労働者としていろいろな才能を持つ労働者がいたことでしょう。あるいはこれといって力作業も事務作業も得意ではない、ただ働いて賃金を得なければと思ってきた者もいたことでしょう。
あるいはなにかの能力はあっても、自分の能力を言い出すことが出来ないものもいたことでしょう。

最後の5時まで雇われなかった残された者、なぜ他の者が優先されて雇われて行き、5時まで残されたか明確な理由はわかりません。
しかしこういうことは言えるのではないでしょうか。最後に残された者も、先に雇われていった者のように雇ってもらいたいという都合があったことでしょう。
でも他の労働者たちの都合が優先されていった。あるいは雇用者側が他のものを先に雇いたい都合が優先されて行ったのではないでしょうか。

明け方には多くの労働者がいたことでしょう。そしてたとえばなしに出てきたブドウ園の主人だけではなく、他の農園のあるいは畜産業の雇用者も来たかもしれません。
他の労働者、雇用者の都合により、最後の5時まで残された者は一切自分の都合は言うことなく、いや少しは言ったこともあったと思われますが、雇われずに時間が過ぎていきました。
朝から必要とされた労働者の人数より多くの労働者が市場にいる中で、他者の都合が優先され、最後まで残り者となった労働者だったわけです。

でも残された労働者は先に雇われて行く者と喧嘩をするわけでもなく、口汚く雇用者を罵るわけでもなくひたすら平和的に5時まで待っていたのです。
このように考えると、ブドウ園の主人は、特にブドウを効率的に収穫してくれる労働者だけを問題にしていたのではなく、もっと広場の平和を考えておられる経営者で、この最後まで残された者も、ブドウ生産のためにはたらいた労働者も大切にしたいという話は納得いくように思うのです。

そして5時まで他者の都合が優先されて最後まで残っていた、平和的に待った労働者と、一年前に古巣神父が話されていたミネヤンが重なってくるのです。
ミネヤンさんがずっと他者都合を優先して、平和に貢献していたのです。

ミネヤンさんと古巣神父との会話に戻ります。会話が続くなかで、ミネヤンは次のようなに話されたそうです。
「自分の都合に生きたときもあったとです。」
「それは、ここを出て早くはたらきたい。自分がせっかく生まれてきたから生きがいをもって生きたいと。」
「でもそうやって自分の都合を言った時が生きづらかったとです。」
「でもこのごろ思うとです。いつも神様の都合を考えようって。」
「私がこの病院にいるのは神様の都合があるからここにいると思うとです。」

そして
「自分には都合がなかとです。神父さん、あんたが都合がよかときでよかとです。」にもどったわけです。
そのとき古巣神父は
「あたまを金槌で殴られるという言葉の意味を知った」と振り返っておられました。
そして泣きながら教会に戻ったそうです。それから一ヶ月後ミネヤンは亡くなりました。
教会で通夜のあと、医師たちは葬儀には都合で見えなかったそうですが、病院の仲間で掃除をする女性が二人で現れてこんなことを話してくれたそうです。

「ミネヤンがおらんとさびしゅうなりました。このひとがおるところは平和だったですよ。」
「この人は自分の都合をいわん人でしたから。」
「季節の変わり目に入所者たちの面もちが悪くなってよく衝突するとです。」
「そうすると、その争いのあるところにミネヤンをベットごともっていっていれるんです。」
「あの人は自分の都合をいわん人でしたからそこが静かになるとです。」

そして教会で葬儀、祝福されて天国に旅立つミネヤンを見て彼女たちが「今わかりました、この人は神様の子供だったんですね。」
と話されたそうです。

少しは自分の都合を言うことはあっても他者の都合を優先し自分が病院に残ることが神様の都合だと考え、施設に残り続けたミネヤンにも、
広場で自分の都合を弱々しく言ったとしても他者を優先し残り者となった労働者にも大いに神の祝福があるのです。

そもそもイエスが十字架にかかっていく姿のなかにも徹底的に他者の都合を優先し続けられた姿がありました。 
十字架につけられ一切自己都合を述べることなく死に至るまで十字架上に残られたイエスがおられたわけです。
しかし父なる神はイエスを復活させ神の愛、栄光、平和を示されたのです。

広場に5時まで残り続けた労働者の中に、そしてミネヤンの中に、主イエスの姿、思いがあるのではないでしょうか? 
みなさんの近くにも、あるいはみなさん自身にも、主イエスが生き生きと生きておられるように思っています。 
アーメン。 (安達均)