12月13日(日) 説教「あちらですよ」

説教

ヨハネによる福音書  1章 6~ 8節 および 19~28 節
6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」
24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、 26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

メッセージ: 

主イエスの恵みと平安が集まった会衆の上に豊かに注がれますように!

今年を振り返ってどんな年だったでしょうか?言うまでもなく、コロナコロナであり、今日本では第三派で、重症者も増え始めてしまいました。まだ来年もトンネルは続きそうです。 ただ、光が見えて来たというニュース、ワクチン接種のニュースがあります。慎重であるべきなことはよくわかります。

また気になるのは、先進国が財政力にものを言わせて、自国民優先でワクチンを確保しててよいかと思います。 世界では毎日飢餓で、2万人もの命が失われているという統計もあります。 今年、先進国内でも、また世界的に見ても、分断が進み、また、貧富の差もさらについてしまっているような状況は否めないのだと思います。

ただ、このような時代背景の中だからこそ、イエスキリストはこの世に来られたこと、十字架にかかってくださったこと、しかし復活されたことに、目を向ける、思いを向けるよう導かれるのです。毎週の聖書箇所を読み説教準備をしていて、今年ほど、十字架に思いを巡らせ、説教では「あちらを見てください。」という感じで、十字架を指すことがおおかったことはないくらい、十字架の話をしていたように思うのです。 

イエスキリストがこの世に生まれた時代背景を考えるとき、私はいまの情勢と似たような局面もあったと感じています。世の闇がどんどん迫ってきていた時代なったのだと思います。ユダヤの宗教指導者たちと庶民の間の隔たり、それは貧富の格差の広がり、分断は進んでいっていたようです。

そのような暗闇の社会状況にあって、救い主の誕生は切望されていました。そして、聖書によれば貧困中の貧困とも思われる状況の中に、神は馬小屋の中で飼い葉おけの中に救い主イエスを送ってこられたのです。そしてその救い主イエスとは、今日の聖書箇所で、「光を証するため」という言葉が二回出てきていましたが、洗礼者ヨハネが証した、光でありました。

今日の聖書箇所の前には、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とありました。その光を洗礼者ヨハネは証しするためにいたのです。

今日の聖書箇所は、主イエスの宣教前に、洗礼者ヨハネが語っていた箇所ではありますが、わたしたちは、後日、主イエスが、光が何をされたかを聖書から知り、また2000年の歴史から学んでいるのです。

光により、盲目の者が見えるようになりました。光により、足のなえた者は歩き出すようになりました。しゃべれなかった人が神をたたえるようになりました。 

しかし、その光を人間社会は裸にし、槍でつつくのです。 光はいっさい抵抗されることなく、釘で十字架に打ち付けられます。そして殺されてしまったのです。それでも神はその光を復活させました。

多くの庶民がその光、イエスキリスト、を信じるようになりました。しかし、ユダヤ教の指導部とローマ帝国はますますキリスト教信者を弾圧しはじめました。

12弟子のほとんどは処刑されました。ローマ皇帝によるキリスト教迫害の歴史が300年近く、二ケア公会議が開からる頃まで続きました。しかし、その間も、すくなくとも地中海沿岸地域で、光は光であることをお止めになりませんでした。 

人間の社会は、世界のあちこちで、地域や時代を変えて、その光を信じるものを、迫害する歴史が繰り返されてきています。日本という国でも17世紀初頭から19世紀半ばまではキリスト教を信じるものは、死刑でした。 迫害が繰り返されても、光は光であることをお止めになりませんでした。

神の愛、光は、神が自らが創造した人間ひとりひとりに対して、暗闇にいる人々に対して、光となり続けました。私たち、人間は暗闇になりどんどん暗くなればなるほど、星が輝いてくるのに気づかされます。光は決してなくならず、罪深い人間であるにもかかわらず、自らが創造した人間をあきらめてしまうことをしませんでした。

3年ほど前になりますが、ノーベル平和賞はICANと国連での核廃絶条約に動いた団体に送られました。ICANと協力しておられた、現在はカナダ在住の、広島で被爆者サーロー節子氏のスピーチに私は心を動かされました。

被爆し、建物が倒れてきて、その下敷きになり瓦礫の中で暗闇の中におられたそうです。その時、彼女の左肩を触る手があり、暗闇の中で声を聞が聞こえてきました。「あきらめるな!(がれきを)押し続けろ! 蹴り続けろ! あなたを助けてあげるから。あの隙間から光が入ってくるのが見えるだろう?」

彼女の人生は、ヨハネが証していた光によって変えられたといってよいと思います。そして、彼女も自分自身ではなく、その光を証しているともいえるのだと思います。その光は、今も世界を変えようとしています。たとえ分断が進もうが、光は光でありつづけるのです。

現在、核保有国も非核保有国とのあいかわらず分断があり、コロナのどさくさにまぎれて、さらに格差拡大、社会分断が進んでしまったかのように見える社会が現実にはあります。 しかし、そこに主イエスの光、神の愛が注がれ続けているのです。 光は光であることをやめようとしていません。 このクリスマスとくに、その光に目を向けるよう導かれています。

直接的には、与えられた聖書、ヨハネ1章19節から28節までの話をしないまま、ここまできてしまいましたが、要はカリスマ的に見えた洗礼者ヨハネ、当時の人から見て、ナルシストと思われたような面もあったのかもしれません。 ユダヤのリーダからは、昔の預言者エリヤみたいだし、またモーセがその昔「あの預言者が来る」といったあの預言者(イザヤ)みたいだし、また、民衆からは、この人こそ、救い主なんではないだろうか、そんな風に思われた洗礼者ヨハネさんだったのです。 

でも、それらは全部否定する、洗礼者ヨハネがいました。「自分じゃありませんよ。あちらですよ。 私のあとから、来られる方がすごい方なのです。」 と語り続けました。それは、今話をしているこちらではありませんよ、(十字架を指さして)あちらですよ。 ということです。 

私たちも、救い主でも、預言者でも、エリヤでもありません。また真の救いは物理的な光でもなければ、ワクチンでもありません。 洗礼者ヨハネがしていたように、どんな暗い時代と思われようが、神の愛、あちらにある十字架を指し示し、喜んで証し続ける一人一人でありたいと思うのです。 アーメン。 (安達均)