4月4日(日) 主の復活 説教題「怪談の様ですが」 聖書箇所よりショートメッセージ

2021年6月18日お知らせ, 説教

マルコ16章1~8節:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。 5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

「怪談の様ですが」 マルコ福音書の原本は8節で終わっているのです。新共同訳聖書を手にとるとわかるのですが、9節以降に結び一と結び二と書かれている箇所が出てきます。それらは、福音書記者マルコが記述したのではなく、後の時代の人々が付け加えた箇所を言われているのです。マルコは誰も復活の主と会わず、ただ「恐ろしかったからである。」という言葉で福音書を終わらせてしまったのでしょうか?  マルコ福音書の最後には大きな意味があります。なぜか墓の中に若者がいて、その彼も名前などは書かれておらず、ここにも怪談的な要素があります。彼のしゃべった言葉で7節に、イエスがガリラヤに先に行って、弟子たちはそこでイエスにお目にかかれる、と語っていました。ガリラヤとは、イエスの弟子たちの生活の場であります。その生活の場でイエスに会える、と。 それは、弟子たちばかりでなく、すべての人々の生活の場にイエスが現れることを示唆しておられるように聞こえてきます。つまり、わたしたち人間が、神に会いたいと思って会えるというより、神様の方が、生活の場の中に、出てきてくださいます。