8月21日(日) 主日礼拝「神は愛なり」 説教:角本浩
ルカによる福音書13章10-17節
10安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。 11そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。 12イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、 13その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。 14ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」 15しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。 16この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」 17こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
聖霊降臨後第11主日(2022年8月21日 松橋教会)
「神は愛なり」 角本浩
10安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。
こう言って本日のみことばは始まっております。
安息日の出来事であった、と。それは今でいう土曜日のことでした。わたしたちはこうして日曜日に集っております。キリスト教会は、基本的に日曜日に礼拝を行います。それがわたしたちにとっての安息日です。
それは主イエスの復活の朝だからです。わたしたちをお救いになるために、世においでになった神の子イエス・キリストは、十字架の上で命を献げ、死んで葬られたのち、ご復活なさいました。それが週の初めの日の朝。つまり日曜日の朝でした。
その時から弟子たちをはじめ、主イエスを信じる人々は日曜日の朝に集い、礼拝をしてきております。
「日曜日がお休みだから、教会は礼拝をする」ではありません。
そもそも初代教会のころ、日曜日というのは決して休日ではありませんでした。しかもキリスト教会は迫害されておりました。日本でも、隠れキリシタンの歴史があります。自分自身がキリシタンであることを知られれば、拷問を受けることだってある、殺されることだってある。であればこそ、日曜日に礼拝を守ること自体、命がけとなる。そういう時代がありました。
はじめのころのクリスチャンたちは、そういう迫害を受けている中にあっても、主の復活を喜び、神を賛美するために、日曜日に集いました。
のちに、ローマ帝国がキリスト教迫害ではなく、むしろ、キリスト教を国教としていった時、日曜日はお休みの日、安息日、礼拝を守る日としていきました。多くの初期の時代のクリスチャンたちによって、勝ち取られた安息日と申し上げても良いものです。
もっともそれぞれの事情の中で、いろいろな曜日に礼拝を守られる群れがいっぱいあります。曜日が変わっても、大事なことは、神さまを礼拝する日であるということ。
創造者であり、罪からわたしたちを贖い、永遠の命をお与えくださる神様のみ前に集い、感謝と讃美をささげる、喜びの日。それが安息日です。
その安息日、彼らは会堂に集まっていました。そこで主イエスもおられ、教えておられました。
10安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。 11そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
そこに十八年も病の霊にとりつかれている女がいた。と。
彼女は安息日に、礼拝を守っていました。
どんな祈りをささげていたでしょう。どんな感謝をささげていたでしょうか。
18年という歳月です。苦しみの日々です。どんな祈りをささげていたのでしょう。
「病の霊」とあります。単にそういう病気だったではなく、病の霊にとりつかれていた、とあります。これがどういうことであったか、分かりません。
細かいことはわかりませんが、でもとにかくその病の霊のために苦しんでいました。
具体的には腰が曲がっていたとあります。そのために、さまざまな生活上の支障もあったでしょう。礼拝に来ていると言っても人目をはばかりながらだったかもしれません。周りの人の視線も痛かったのではないでしょうか。
この時、彼女は何歳くらいだったのか。何も書かれていません。仮に思春期の頃くらいにそういう病に侵されていたとすれば、青春時代もずっとその病の霊にとりつかれたまま、現在30何歳くらいになっているということになりましょう。あるいは仮に二十歳頃にそういう状態になったのであれば、もう40歳くらいになる。何歳であっても、この十八年間は、彼女の人生に大きな影響を与えてきたことでしょう。
10安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。 11そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。12イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、 13その上に手を置かれた。
主は彼女をご覧になりました。その日、安息日に、会堂におられ、教えておられたイエス。イエスは、彼女をご覧になった。
この11節と12節、こんなふうに短くまとめることもできるかもしれません。
「そこにひとりの女がいた。イエスは彼女を見た。」と。
そこにいる人、主はご覧になっておられる。安息日に、会堂に来る者を主は慈しみ深く見ておられる。今もです。
今日ここにあなたがいる。主はあなたをご覧になっている。怖い顔で、ではありません。慈しみの眼差しを注いでおられます。
あの日、そこにひとりの女がいた。イエスは彼女を見た。
・・・それは今、ここでも起こっていることです。
ここに登場する女性は、十八年もの間、病の霊にとりつかれ、腰が曲がったまま過ごすという状態でした。
わたしたちの中にも、同じ病気でないとしても、何か重荷を抱えながら、長い時間を過ごしている、ということはあると思います。ある人は、家族の問題かもしれない。ある人は、仕事のことかもしれない。人間関係かもしれない。誰にも言えない何かかもしれない。
それをずっと抱えながら生きている。
イエスは見ておられます。憐れみつつ、眼差しを注いでおられます。
12イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、 13その上に手を置かれた。
見つめておられたイエスはおっしゃった。「婦人よ、病気は治った。」と。
これは宣言というほうがふさわしいと思えます。主の宣言、救いの宣言です。
この腰の曲がった女性が、自分から、「主よ、憐れんでください」とか、「救ってください」とか、願ったのではありません。この人を主がご覧になり、主が一方的に、救いの宣言をなさいました。
このこともまた、わたしたち一人一人に起こったことです。
主はあなたを見つめ、あなたにおっしゃいます。「あなたは救われた。」「あなたは神に愛されている。」「神はいつもあなたと共におられる!」
「婦人よ、病気は治った。」・・実はこの言葉、聖書のギリシア語を直訳しますと、「婦人よ、あなたは病気から、解かれた」「解放された」です。
解き放ってくださる主。かつてエジプトの奴隷のくびきに縛られていた人々を解き放ってくださったのも主の大いなるみわざでした。
「婦人よ、病気は治った。」「あなたは病気から、解き放たれた」
しかも「病気」と訳されている言葉も、もともとの意味は、「弱さ」とか「無力」という言葉です。
「あなたを捉えている弱さから、今、あなたは解放された。」「もうあなたは弱さに捕らえられていない」と。
「弱さ」ということで、ひとつ思い起こすのは、使徒パウロがコリント書に書いている言葉。神にわたしは自分の弱さについて、祈った。ところが、神は、あなたに恵みは十分である。その弱さにおいてこそ、あなたは強い。というみことば。
パウロだけでなく、このひとりの女性だけでなく、わたしたちは皆、世にあって、心も体も弱いものです。
その弱さによって、いろいろな苦しみや、悲しみや、争いも起こります。弱さに捕らえられており、そこから逃げ出すことはできません。
しかし、そのようなわたしたちをそのままで、「よし」と言ってくださる。「きわめてよし」、「恐れることはない、思い煩わなくていい」と言ってくださる主を知ります。
ありのままの私を、ありのままのあなたを「よし!」と言ってくださるお方。
わたしたちは弱く限りあるものです。やがて死を迎えます。死に勝つ者はおりません。どんなに体を鍛えて、強くなっていても、どんなにお金をためていても、死には勝てません。
でも、「もうあなたはその弱さから解放された」と主がおっしゃいます。
あなたを見つめておられる主、このお方が、わたしたちを救ってくださいます。
今日の個所、話は後半に入ると、そこにいた会堂長が「なぜこのようなことを安息日にするのか」といって非難する話になっていきます。
実は、今でもユダヤの人々は、安息日にはいっさいの働きをしないということについては、厳しい姿勢を持っております。イエスのなさった癒やし、それはたとえば、「一日置いて、明日でもいいではないか」「よりによって安息日にすることはないだろう」という非難です。
けれども主はおっしゃいます。 16この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。
「安息日であっても、その囚われている束縛、弱さから、安息日であっても、解いてやるべきではなかったか。」
この言葉は、むしろ、「安息日だからこそ」と読めるのではと思います。
今、ここで主のみ前で礼拝するわたしたち。この安息日にこそ、主の眼差しを受け、主の愛を知り、主の救いに与かる。
群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
主の救いを見て、主の救いを知って、喜ぶ。賛美する。
この一人の女性の救いを見届けた人々が一緒に喜びました。
わたしたちも、集い、神様のみ前で、喜ぶ人と共に喜びます。
安息日に集い、隣人の救いを見て、喜ぶ。
わたしたちのもとで、いちばんわかりやすいのは、洗礼かもしれません。一人の人が主の救いを信じ、洗礼を受けるとき、わたしたち、いちばん嬉しい時です。
でも、洗礼式の時だけではありません。その救いの喜び、恵みを信じ、自分の弱さではなく、神の愛に包まれる、自分の罪にではなく、それをおゆるしになる主の憐れみに包まれる、囚われる。その喜び。
腰の曲がっていた彼女は、まっすぐに立つようになりました。わたしたちもここで恵みを受けたものとして、神を愛し、隣人にお仕えするために、「さあ、立ち上がりなさい」「ここから行きなさい」と召し出されていきます。
弱さはあります。彼女のように病気が治るということはないでしょう。でも、そのままのあなたを、主の愛が包む。捕らえる。そこに、わたしたちの強さがあります。
どうか皆様の新しい歩みに、主の恵みと導き、豊かにありますように。