4月26日の説教から 「裂かれたパン」

説教

「裂かれたパン」   牧師 安達均

今日はこの写真に写っている「裂かれたパン」をまず見ていただきたいと思うのです。何かを感じられますでしょうか? どんなことを思われますでしょうか? 

私は、なにか不思議な感じがしています。この松橋教会では、ウェハースを使っておりちょっと写真のパンとは違いますが、それでも月二回は聖餐式を行われ、毎週日曜は礼拝堂に集っていました。 しかし、新型コロナウィルスの拡散防止のため、大切な聖餐式が四旬節の後半から守れなくなってしまい、礼拝もなぜか4月12日の復活主日から礼拝も守れていないのです。イエスさまが「取って食べなさい」と言われる、裂かれたパンを、食することができなくなってしまっています。 

世界のキリスト教徒の中には、この聖餐式こそが、礼拝の中心であり失望しておられる方も、たくさんおられます。私の所属しているアメリカのルーテル教会、アメリカ全土に9000の教会の集合体ですが、礼拝式文が10パターンが用意されてますが、その礼拝そのものを、すべてHoly Communion(聖餐式)と呼ぶのです。それくらい、聖餐式の重要性があります。 

写真ではありますが、この裂かれたパンが、いったいどうわたしたちに影響してくるのか、聖書のストーリを振り返り、さらに思いを巡らせてみたいと思うのです。 

主イエスはユダヤ人の多い地方と周辺の異邦人地域においても、歴史上比類のない人々への愛と憐れみをあらわす行動をされていました。それは旧約聖書のイザヤ書で預言されていたように、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。まさにこのようなことを実現されていたのです。

ところが、そのイエスがあの金曜日に、屈辱的な十字架刑により、殺され、墓に葬られてしまったのでした。イエスの元で神の国を実現するヴィジョンに引きつけられた弟子集団は、いっきに落胆しました。いや落胆どころか自分たちも十字架刑に合うのではという恐怖心にも襲われていました。

弟子集団に属していた者たちは、ペトロが墓に行っても遺体がなく墓は空だった、という話は信じられず、ましてや婦人たちが蘇ったイエスに会ったという話を聞いても、「それはたわ言だ。」と言っていたのでした。

ですので、本日の福音書に出てきているクレオパともう一人の弟子は、はやばやと集団から抜けて、復活の日曜の午後には自分たちの故郷だったのか、エマオという町に向かって歩いており、昔の職業にでも就こうとでも思っていたのかもしれません。  

彼等にとっては、イエスが人々に示してくださった愛と憐れみが、十字架の死によってむなしく滅びてしまったという思いでいっぱいだったことでしょう。 イエスに従ってきた自分たちの弟子としての生活は、はかなく終わった、そんな風にしか振り返れなくなって、意気消沈の中でエマオへの道を進みはじめたことでしょう。

しかし、そのような落ち込んでいた二人に、彼等にとっては得体のしれないだれかが、ともに寄り添って、歩みはじめてくださったのです。 そして、質問もしてくださるのです。 二人は話しかけてくださったのが、イエスであることはまったく気が付いておらず、イエスは墓に葬られた者という思いは変わっていないものの、なにか心がはずむような元気をいただけるようになっていくのでした。 

そして、三人がエマオ近くのある宿に近づきつつある時、二人はその得体しれない人であるにもかかわらず、いっしょに食事をして、その宿にもいっしょに泊まるように、しつこく勧めるという事態へと変わっていくのです。 

そしてその宿でいっしょに食事をとろうとした時に、イエスが決定的なことをなさるのでした。 5000人の給食の際に、パンを感謝してそれを裂いたように、また最後の晩餐で同じようにされたように、パンをとり、感謝して、それを裂かれたのでした。

弟子たちが、そのパンを受け取ったところまでは、今日の聖書箇所に描写されていましたが、弟子たちがそれを食したかどうかまでは書かれていません。ましてや美味しいパンであったかっどうかも書かれていません。本日の与えられたストーリとしては、実際に食べたか食べなかったかは、あまり重要なことではないようです。それよりも、二人の弟子の目が開かれて、パンを取り、感謝して、それを裂かれたお方が、復活のイエスであることに気づかされたのです。 

そして、二人の弟子は、180度方向転換をして、エルサレムに向かって大急ぎで歩き出し、弟子集団のもとに戻っていくのです。そこには、裂かれて、ばらばらのパンになってしまったような弟子たちの存在ではありましたが、復活のイエスに大きな力をいただき、弟子たちが再度結びつけられていく力があるように思います。伝道するキリスト教会がはじまるにはまだ50日ほど待つ必要があったのですが、イエスの復活による教会形成の土台が作られていっているように思えます。 

おおざっぱではありますが、本日与えられていた福音書箇所を振り返ってきました。 今日の箇所は、世界中のキリスト教会で、実際に集まって礼拝を守れない、墓が空っぽになるどころか教会の礼拝堂が空っぽになっており、そこで聖餐式もない状況の私たちに大きな働きかけが与えられているように思うのです。

たとえ共に礼拝堂にはつどえずにバラバラになって各家庭礼拝を守っていても、イエスが裂かれたパンのことを思い出すとき、各家庭で行われる礼拝で読まれるみ言葉とともに、復活の主がともなってくださっていたことに気づかされる。そのようなことが起こっているいるように思うのです。ばらばらになっても、復活の主にあって結びついている教会共同体であることに気づかされるのではないでしょう。 

九州学院でチャプレンをされている小副川先生は20年以上前に書いた彼の書籍「愛することと信じること」の中で、こんな話を書いておられます。「この共同体(キリスト教会のこと)は、現実の歴史の中で、さまざまな姿や形式を取りうるかも知れません。」つまり、礼拝堂に大勢で集まる主日礼拝も、各家庭で主日礼拝を守るような形式も、起こりうることです。 

そして、彼の言葉は続きます。「それがどのような姿であれ、イエスの復活は、罪と死と滅びに向かう人間が、回れ右をして、愛と信頼、希望と勇気、平和を携えて新しく生きていく生命の出発点です。」

信仰をほぼ失っていた、エマオに向かっていた弟子たちが、裂かれたパンを見て復活の主がともに歩んでいたことに気づき、回れ右をして再出発したのです。それと同じように、わたしたちも裂かれたパンを思い出すなかで、復活の主を思い出し、新しい一週間を、イエスにある愛と信頼、希望と勇気、平和を携えて新しく生かされて、再出発いたしましょう。 アーメン