5月3日の説教から 「羊飼いと羊のたとえ」

説教

説教 「羊飼いと羊のたとえ」   牧師 安達均

 主イエスキリストの恵みと平安が、主イエスの子供たちである会衆の上に豊かに注がれますように。

 毎週、主イエスの真の御声を聞かないまま、他の何かに迷い続けてしまったり、没頭してしまう対象が存在する現実があります。2ヶ月前の時点では到底信じられなかった現在の新型コロナウィルスの状況に、健康、医療面、経済、また政治状況にしても、ただ不安ばかりが募ってしまい、どう行動してよいか迷い続けてしまう方がおられるのは実情だと思います。あるいは、何かの中毒症状ともいえるような、パチンコだったり、あるいは異性のだれかだったり、人によっては同性のだれかということも現実におこるのだと思います。でも、何かに迷い続けている、あるいは没頭する時間があったとしても、100パーセントウィルスやその他のことに集中してしまうのではなく、週のはじめは、たとえ礼拝堂に集えず、家庭礼拝であったとしても、神の声を聴き一週間を始めることができるように、祈っております。  

 今日の聖書箇所では、羊と羊飼いの関係をイエスは話しています。羊は弱く、一匹だけで生きていくことはできません。自分の羊飼いの声を聞き分け、夜は囲いのあるようなところで過ごします。明るくなると、やはり羊飼いの声に従って、群れを成し、そして牧草地にも行き、栄養を得られるのです。しかし、羊というとその目的は羊毛だったり、羊肉として食べられてしまうわけですが、イエスのたとえでは、羊飼いが羊たちの羊毛を売ってしまったり、羊たちを食用に売ってしまうような羊飼いとはちょっと違うのです。さきほど拝読した福音書箇所の次の節になりますが、イエスは「私は良い羊飼である。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と自らを説明しています。羊にとって、いったいどんなふうに良い羊飼いなのでしょうか? 

 聖書に描かれた壮大なストーリの中からわかることは、この良い羊飼いとは、羊飼いのままいるのではなく、徹底的に自分の羊たちを愛し救うために、羊飼い自らが羊にまでなってしまい他の羊たちの命の救いのため屠られてしまうのです。しかし、その良い羊飼いは屠られ死にて葬られても、永遠に生きており、羊たちとともに歩んでくださるのです。 来週は5月10日は母の日を迎えますが、母の日に備える意味でも、あるキリスト教大学のチャプレンの方から学んだ昔話を紹介します。

 ある所に、母親と一緒に暮らす若者がいました。彼は大変親孝行者でした。村人は皆、彼を誉めながら、彼のお母さんをうらやましがっていました。ある日、彼は隣村に買い物に行った時、思いがけず、大変美しい女性と出会い、すぐに彼女のことが好きになってしまいました。 しばらくして、彼はその女性に、愛の告白をし、結婚を申し入れます。彼女はそれを受け入れました。その青年を大変気に入って、毎日のように仲良く付き合うようになるのです。
 さて、結婚直前に、彼女は突然、結婚のための一つの条件を持ち出します。ところが、その条件というのは、信じられないものでした。それは、「愛する人よ、私と結婚するためには、あなたのお母さんの心臓を、私のところに持ってきなさい。そうでなければ結婚はできません。」ということでした。 
 若者は耳を疑い、考え込んでしまいます。「そんなはずはない。」ところが、彼女は、その条件を若者に要求しつづけます。若者は思い悩んだ末、その美しい女性とどうしても結婚したいという気持ちを、抑えることができませんでした。
 そして、ある日、涙を流しながら、寝ている母親の心臓を切り取って、自分の手に持ち、その娘のところに走って行くのです。しかし、急いで向かう途中、小さな石につまづいて転んでしまいます。もちろん、手に持っていた母親の心臓も落としてしまいます。落ちた心臓を拾おうとした時、地面に落ちた母親の心臓から、心配そうな母親の声が聞こえてきます。「我が子よ、大丈夫か、けがはしなかったか、気をつけておゆき。」その時、若者はようやく正気に返ります。親孝行者と言われていた自分が、女性の美しさに目が眩んで、大切な親を手にかけてしまったことに気がつくのです。

 この昔話、息子と彼女は、私たち人間つまりイエスの言われる羊たち、そして母親はすべての人間を創造された神である主イエス、つまり羊たちのために命を捨てる良い羊飼いであること、おわかりいただけただでしょうか? このような形で各家での礼拝を守っているなかでも、ここまで私たちを愛してくださる主なるイエスに気づき、毎週、その主イエスの御声を聞き、良い羊飼いに養われる羊たちの群れが成長していくよう祈ります。アーメン